●『峠の雲』テレビ放送決まる
 昨年8月に三越劇場で上演された『峠の雲』が、2001年4月27日(金)深夜1時45分〜3時55分/NHK衛星第二で放映されます!


《峠の雲》は、公演を終了いたしました。
劇場においでいただいた方、応援してくださった方、ありがとうございました。


三越劇場 8月文学座公演
峠の雲

作/中野 実「褌医者」より 補綴・演出/吉本哲雄


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― 出演 ―
北村和夫・金内喜久夫・鵜澤秀行・塾 一久・原 康義・石川 武
醍醐貢正・加納朋之・田中明生・櫻井章喜・石橋徹郎・鍛治直人
塩田朋子・山本あゆみ・山本郁子
太田志津香・片渕 忍・岡 寛恵・鬼頭典子・浅海彩子

揮(ふんどし)医者こと小山慶斎は、長崎仕込みの一流の蘭方医でありながら、
名利を一切顧みず日夜庶民の医療に奔走する。
大衆演劇に偉大な足跡を遊した中野実の代表的名作が今、甦る。
人情味溢れる主人公慶斎に北村和夫が扮します。

2000年8月11日(金)〜27日(日)
日本橋三越本店6階・三越劇場

《14日(月)・21日(月)は休演》

入場料 6,200円(全席指定・税込)
前売り開始  7月1日(土)
文学座支持会員の方には先行・優先予約がございます。

8月 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27
11:30

午後1時
午後4時

補綴・演出……吉本哲雄   
装置……石井強司
照明……古川幸夫
衣裳……伊藤静夫
音響効果……深川定次   
演出補……富田稔英 
舞台監督……三上 博   
制作……浜本久志
製作……三越劇場

配 役
物 語
どんな舞台?

【 配 役 】
小山慶斎……………………………………………………・北村和夫
池田明海・…………………………………………………金内喜久夫
巡礼の老爺/釜谷の松右衛門………………………………鵜澤秀行
旅芸人の親方/丑蔵…………………………………………塾 一久
半五郎…………………………………………………………原 康義
渡り大工/賭場の客/木島伝一郎……………………………・石川 武
鏡磨ぎ職人/源太/ 大下嘉兵衛……………………………醍醐貢正
六部/仁兵衛…………………………………………………加納朋之
寅松/旅芸人………………………………………………・田中明生
旅芸人の太鼓の男/早賭けの喜三郎………………………櫻井章喜
渡り板前/夜嵐の与兵衛/旅芸人…………………………・石橋徹郎
博奕打ち/賭場の客/旅芸人/松右衛門の子分…………・鍛治直人

いく・…………………………………………………………・塩田朋子
旅芸人の三味線弾き/トメ…………………………………山本あゆみ
お咲…………………………………………………………・山本郁子
渡り大工の女房/旅芸人………………………………・・太田志津香
巡礼の娘/志乃/旅芸人………………………………………片渕 忍
お寅/旅芸人…………………………………………………・岡 寛恵
旅芸人の踊りの女/賭場の女………………………………鬼頭典子
鏡磨ぎ職人の女房/ふく/旅芸人……………………………浅海彩子

【 物 語 】
天保13年(1842)秋。
東海道は金谷宿にある木賃宿。
長雨があがり大井川の川留めも漸く解けて、足止めされていた旅人たちは我先にと宿を後にする。
そんな中に、旅立ちたくても発てない渡り大工と臨月間近の女房がいた。
幼い息子が数日前から高熱を発していたのだ。
偶然その宿に居合わせ、治療を引き受けたのは、
長崎でオランダ医学を修め江戸に帰る途中の小山慶斎と池田明海。

が、二人とて江戸への旅を急ぐ身、あとは土地の医者にまかせようと、明海は一足先に宿を発つ。
入れ替わりに、長崎から明海を追ってきたいくが到着。
慶斎もまた旅支度をはじめたその時、子供が突然ひきつけを起こし、母親までが産気づく。
慶斎は治療を再開し、いくも、お産の手伝いをすることとなって……。

時は流れて20年後、文久2年晩春。
金谷宿の貸し元、松右衛門の賭場。
町医者となった小山慶斎の妻いくが博打に興じている。
傍らでその妻を嬉しそうに眺めながら酒を飲む慶斎。
自分の着物が駒札に代わり、褌に羽織という珍妙な姿になっても一向に気にしない慶斎を、
いつしか人々は「ふんどし医者」と呼ぶようになっていた。
負け続けるいく。
壷振りをかってでた旅人のイカサマを見抜き、土地の博徒半五郎が忠告するが、慶斎は取り合わない。
中座する半五郎、その後を追うやくざ二人。
しばらくして、半五郎を慕う茶屋娘お咲が駆け込んでくる。
半五郎が先程のイカサマ師たちに切られたという。
慶斎は、その場でただちに外科手術を施そうとするのだった。

一ヶ月後。
表に「御役人、分限者、御浪入御無用」の看板を掲げた慶斎の住居。
かつての親友、今は将軍家奥医師となった池田明海が訪ねてくる。
旧交をあたため合う二人。
明海は慶斎が町医者のまま埋もれてしまうのを惜しみ、
江戸へ出て医学所の教授となるよう、熱心に慶斎を口説く。
しかし慶斎はその申し出を断わる。
一方、慶斎の手術で危うく命をとりとめ、以来慶斎に心服する半五郎は、
慶斎に弟子入りして医師になりたいと懇願する。
半五郎の思いの並々ならぬことを知った慶斎は、長崎で修行してこいと路用の百両を渡す。

明治4年。長崎での修行をおえて半五郎が帰ってくる。
ちょうどその頃、怖ろしい伝染病がこの宿場町でも猛威をふるい始めていて……。


【どんな舞台?】
「医は仁術」を地で行くような一人の名医と、
その周辺に集う多彩な登場人物たちが織りなす一級のエンタテイメント。
幕末の宿場町を舞台に、笑いと涙をたっぷりと盛り込んで展開する痛快時代劇『峠の雲』は、
気たる8月11日に三越劇場で待望の初日を迎えます。

幕開きのプロローグは天保13年、東海道は金谷宿にある木賃宿。
大井川の西側に位置する金谷は、江戸時代、
対岸の島田と向き合って宿場町を形成し、大井川の川越え地点として栄えました。
黙阿弥の人気狂言『白波五人男』稲瀬川勢揃いの場、日本駄右衛門の名科白
“……人に情けを掛川から金谷をかけて宿々で……”にある、あの金谷宿です。

秋の長雨による川留めで長逗留を余儀なくされていた旅人たちが次々に出立していきます。
東海道の要所とされ橋や渡船を禁じられた大井川、
人々は必ず人足を雇い、蓮台(れんだい)に乗ったり人夫の背肩に負われて川を渡りました。
川留めは三日から五日、時には一ヶ月に及ぶこともあって、
旅人たちの落とす金で宿場は潤ったといいます。

続く第一幕は文久2年。
1月の坂下門外の変、8月の生麦事件、12月の高杉晋作ら長州藩士によるイギリス公使館焼討ちと、
尊皇攘夷の熱風吹き荒れる一年でした。

ほぼ10年前の嘉永6年、ペリー艦隊の浦賀来航によって、“太平の眠りを醒ま”された、鎖国日本は、
その後次々と欧米列強から開国を迫られます。
開国か鎖国かの外交問題が紛糾するなかで幕府首脳の政治的無能が露呈し、一方で公家の政治参与、
薩摩・長州・土佐など雄藩の中央政界進出、下層武士や脱藩浪士らの政治活動が活発化していきました。
そして言うまでもなく、反幕府側は「尊皇攘夷」を倒幕運動の旗印としたのです。

ちなみに劇中、慶斎先生が家の表に掲げる「御役人衆、分限者、御浪人御無用」の御浪人とは、
尊攘運動の軍資金と偽って庶民の金品を強奪していく不逞の輩(やから)を指しています。

『峠の雲』の主人公・小山慶斎は長崎で、かのシーボルトが開いていた鳴滝塾に学び、
オランダ医学を修めたという設定になっています。いわゆる蘭方医です。

慶長5年(1600)にオランダの帆船が日本に漂着してから今年で400年。
その後鎖国となってもオランダとの国交は続き、多くの文物、学問や技術が日本に流入しました。
医学も勿論その一つで、多くの俊才たちが先進国であったオランダ医学を学び、
やがて日本にも本格的な西洋医学の時代が訪れます。

日本人を指導したのは長崎出島の蘭医でした。
初期において有名なのは「カスパル流外科」の祖カスパルで、のちにその流れを汲み、
世界初の全身麻酔による乳癌手術を成功させたのが華岡青洲なのです。
やがて時代と共に、長崎に発した蘭学は京・大坂、さらに江戸へと移っていきます。
前野良沢らとの共訳で「解体新書」を出版し、江戸蘭学の祖といわれた杉田玄白や、
蘭学塾を経営して多くの蘭方医を養成した宇田川玄真などを輩出しました。
その玄真の弟子が緒方洪庵。洪庵が大坂で開いた「適塾」という蘭学塾は幕末最大の洋学学校でした。
洪庵はやがて官立医学所の頭取となりますが、この医学所が明治時代には東京大学医学部の母胎となるのです。

またもう一人、幕末の長崎で忘れてならない蘭医はポンペでしょう。
海軍軍医であったポンペは、幕府に招かれて海軍伝習所の医官となり、
日本における公の西洋医学教育を初めて行います。
さらに、日本初の洋式病院「長崎養生所」を設立、患者の診療にあたると共に臨床講義もして、
医学教育の実施・普及に大いに貢献しました。


さて、幕末の蘭方医に「医は仁術」を広く知らしめたのは玄白の孫・杉田の杉田成卿(せいけい)でした。
ドイツの医師フーヘランドの著「エンシリヂオン・メヂキュム」を
「医戒」(1849年刊)の書名で翻訳刊行し、医の倫理を樹立しようとしたのです。
幕末のベストセラー「医戒」は医師の使命を以下のように力説します。

他ノ為ニ生ジテ己レノ為ニセズ、是即チ医業ノ本体ナリ。
/モットモ生命ノ危キ者、コレヲ第一等ノ病者トス。
/一握ノ黄金モコレヲ貧士雙眼ノ感涙ニ比セバ何者ゾ。

自分のためより他人(ひと)のため、謝礼の札束より感謝の涙!
―――まさに「医は仁術」であり、
今回の『峠の雲』で活躍する褌医者慶斎先生こそ、「医戒」の第一の実践者でした。



文学座は八月の三越劇場で中野 実の代表作『褌医者』を、『峠の雲』と改題して上演するという。
この作品の初演は昭和30年7月の歌舞伎座で、主人公の小山慶斎が二世猿之助、のちの猿翁、妻のいくが三世中村時蔵だった。
作者によると、戦災で焼け出され、居候をさせてもらっていた菊池寛の家で書き上げたものだそうだ。
菊地に見せたところ、早速自分が社長をしている大映の企画部に持ちこんでくれたのだが、
主人公の医者がふんどし一つの裸になるのでは困るということで、社長の威光も通じず、映画化はオジャンになってしまった。
その後もこの作品はあちこちの劇団をタライ回しされ、十年目にやっと陽の目を見たわけで、中野の喜びも一入(ひとしお)だったのだろう。
のちにこの作品について「難産の末の子だけに余計可愛い」と語っている。

中野 実は明治34年大阪に生まれた。
昭和初年に上京、岡本綺堂の門下生となり、小説や劇作の修行に打ちこんだ。
のちに新派や新国劇に競って作品を提供するようになる北條秀司とは同門の仲だった。
中野は早くから菊池寛の知遇を受け、小説家としても成功、
とくに『花守賦』や『パパの青春』といったユーモア小説に独自の世界を拓いているが、
劇作家として世に出るキッカケになったのは、昭和6年、新派によって上演された『二等寝台車』が思いのほか評判を得たことで、
以後、川口松太郎と並んで新派への創作劇の中心的提供者となってゆくのである。
その多くの作品群の中で戦前の物はともかく、戦後の代表的なものといえばなんといっても、
昭和29年11月の明治座で初演された『明日の幸福』であろう。

この作品は、三代の夫婦が同居する松崎家の人びとを描いた一種の家庭劇だ。
家長である寿一郎は政界の大物で、家庭内でも絶対的権力を握っていて、家の者は腫れ物に触る思いで過ごしている。
ある日、その寿一郎に入閣の話が伝わる。
喜んだ寿一郎が党の実力者に、家宝の馬の埴輪(はにわ)を贈ろうと思い立ったところから起こる
妻の淑子、長男の嫁恵子、孫の新妻登美子、三代の女たちの悲喜劇と、明日への希望をかっきりとした構成で描き、
現今の家長の権威喪失と新しい家族関係を予感させる、時代を先取りした作品として大いに注目され、
芸術祭賞の団体賞や毎日演劇賞の作品賞を受賞している。

初演時に恵子を演じた初代水谷八重子はこの役が気に入り、以来九回も演じ続け、八重子十種の一つに選定しているが、
48年の1月の新橋演舞場公演の際はじめてこの役を娘の良重に譲り、自分は寿一郎の妻淑子に扮している。
この舞台が開(あ)いた二日目の1月3日、八重子母娘それぞれ初役の舞台を監事室から見ていた中野実は、
二幕目の途中突然脳溢血で倒れ、そのまま亡くなった。
72歳、劇的な死であった。

『褌医者』はこの『明日の幸福』初演の翌年板(イタ)に乗ったことになる。
中野自身が「難産の末の子」といっているように、舞台化への道は遠かったが、
菊地の好意で雑誌「オール読物」に掲載された小説を、作者自身が脚色・演出しての上演だった。
中野の入れ込みようは大変なものだったらしく、「演劇界」誌上に劇作家の青江舜二郎などは、
「中野実ばんざい。よかったよかったと私は見ている中(うち)にいくたび心の中(なか)で叫びつづけたことか。
これは彼の生涯の傑作であるばかりでなく、昭和商業演劇の代表作として推していい」
と、興奮気味な評を寄せている。

この作品の魅力は、なんといっても主人公の町医者夫婦のケタ外れの人間性にある。
貞淑で美人のいくは、一方で無類の博打好き。
そんな妻をうれしそうに傍らで眺めながら、ちびりちびりと酒を飲む慶斎先生。
妻が負けるたびに慶斎の着物がコマ札に化けて、ついに褌一つに羽織という珍妙な姿になっても一向に気にすることなく、
女房と肩を並べて街中を歩く。
人びとが「ふんどし医者の先生」と呼んでも、「なんだい」と返事をする気さくさが身上の医者だ。

昔から医者を主人公とする芝居や映画は多く、いまもテレビドラマでさかんに放映されているが、
名作とされるものはいずれも個性的だ。
極悪人の村井長庵は別格として、「医は仁術」を実践、現代医療へのアンチテーゼのような存在の医者は、
赤ひげ先生にしろ華岡青洲先生にしろ、たいがい強烈な個性の持ち主で、
それが魅力になっているのだが、褌医者の慶斎先生の個性はやはりケタ外れだろう。

今回文学座がはじめて上演する『褌医者』を改題した『峠の雲』は、
吉本哲雄の補綴・演出で、慶斎先生を北村和夫、妻いくを塩田朋子
そして慶斎の学友で将軍家お抱え医の池田明海を金内喜久夫が演じることになっていて、
とりわけ興味をそそられるのは北村和夫の慶斎だ。
舞台では猿翁から尾上松緑に、映画では森繁久彌、テレビでは八世坂東三津五郎が演じた役。
好漢北村和夫がその真価を発揮してくれることになるだろう。
(津田 類氏――文学座通信7月号より)



医者はヒーロー
古今東西、医者を主人公とする戯曲や映画やテレビ作品は、それこそ枚挙にいとまないほど数多くあリます。
モリエールの医者嫌いは有名で、
『飛ぶ医者』『恋は医者』『嫌々ながら医者にされ』『病は気から』などの作品で繰り返し医者をからかい、嘲笑しています。
歌舞伎で言えば、河竹黙阿弥の『勧善懲悪覗機関』が代表作でしょうか。
医者で“かたリ”で殺人犯―――この作者にはめずらしく、
良心のかけらもない根っからの極悪人村井長庵は、鬼気せまる大ヒーローです。

しかしこれだけでは、お医者様は救われません。もちろん名医も数々登場します。
その第一は何といっても、只今旅公演中の『華岡青洲の妻』でしょう。青洲先生は実在の世界的名医です。
映画で印象的なのは、江戸時代の公立の施療院「小石川養生所」所長・新出去定。
言わずと知れた黒澤明監督『赤ひげ』の、主人公で、名医のうえに経営の才もあリ、腕力あリ、常に貧しい者の味方となる、
まさに医者の鑑のようなスーパー・ヒーローでした。
黒澤監督はほかにも『酔ひどれ天使』や『静かなる決闘』などで、魅力溢れる医師像を描いています。

病院や医師はテレビドラマの世界でも恰好のモチーフとなリました。
古くは『ベン・ケーシー』。最近では『大西部の女医ドクター・クイン』や『ER‐緊急救命室』などが放映中で、
かなリの人気を博しています。日本の連続ドラマにも硬軟とリまぜて病院や医師・看護婦が多く登場します。
やはリ人間の命を預かる病院やそこで働く人々はドラマになリやすく、
また、時代を超えて劇作家や脚本家の創作意欲をかきたてるということでしょうか。

作者・中野実と『褌医者』
「医は仁術」と言います。
損得を度外視し、奉仕的に治療することが期待される医道の称―――と辞書にはあリます。
もっとも近頃では、皮肉を込めて「医は算術」などと言う人もいるのですが。
8月・三越劇場公演、中野 実=作「褌医者」よリ、吉本哲雄=補綴・演出『峠の雲』の、主人公小山慶斎は、
まさに「医は仁術」の見本のような名医です。
日夜貧しき庶民のための医療に奔走し、無私無欲を貫くその姿は感動的で、
こんなお医者様がいてくれたらなあと思わせずにはいません。
主人公ばかリでなく、愛妻いくや終生のライバル池田明海、博徒から医師を志す半五郎とその恋人お咲など、
この作品には多彩で素敵な人物たちか配されています。
中野 実作品の文学座上演はもちろん今回が初めてです。ですから、まずその略歴をご紹介しておきましょう。

中野 実―――劇作家、小説家。明治34年、大阪生まれ。岡本綺堂に師事し、雑誌「舞台」の同人となる。
昭和7年、松竹募集脚本に史劇『木曽義仲』が当選した。
戦後、歌舞伎、新派、新国劇に戯曲を提供したが、
巧みな構成の中に、新しい家のモラルと人間関係を示した『明日の幸福』で毎日演劇賞受賞。
戯曲集は『明日の幸福』『ある女の生涯』『千曲川通信』など。
また『乾杯!若旦那』『ジャンケン娘』など多くのユーモア小説がある。
昭和48年歿。

『褌医者』から『峠の雲』へ
作者自身の術懐によれば、この『褌医者』は終戦直後に戦災で焼け出された作者が、
菊池 寛の家に厄介になりながら書き上げた作品とのこと。
菊池 寛はすぐに、当時社長だった大映に企画を持ち込んでくれましたが、
主人公がふんどし一つの裸になるのは困ると言う理由で映画化は実現しませんでした。
いずれにせよ『褌医者』は、とくに、貧しい、無知な人々のためにのみ生きた医者が、
逆境に立っても良い女房、弟子、友達を持って幸せだとする幕切れは、
作者なりの終戦直後の行き方の追求と確認であったのでしょう。
作者自らが代表作の一つに数えるこの作品。
テーマの普遍性、活き活きと描かれた各人物像、見事な劇構成、さらには各場面でのセリフのダイナミズムなどなど、
どれをとっても一級のエンターテイメントで、今も観る者に強く訴えるものを持つ名作です。
その名作が、吉本哲雄氏の補綴・演出により『峠の雲』と改題されて今夏、三越劇場の舞台に甦ります。
豪放磊落な小山慶斎役は北村和夫にまさにピッタリ、塩田朋子のいくと金内喜久夫の明海も適材適所、
面白い舞台となること受け合いです。
どうぞご期待ください。

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