【どんな舞台?】
7月の声を聞くとともに始まった、
金子成人=作、
戌井市郎=演出『
阿蘭陀影繪』の稽古もいまや終盤。
稽古には歯切れよくニュアンスに富んだ長崎言葉や鹿児島弁が飛び交い、
その合間には三味線や月琴の音色も流れてくるという、
文学座ならではの芝居作りの雰囲気が充分に伝わってきます。
ヒロイン一蝶役の
平 淑恵をはじめとする女優陣、
芸者置屋主人巳之吉役の
北村和夫を筆頭とする男優陣、
いずれも適材適所の俳優たちがそれぞれの持ち役を充分にふくらませて、
8月11日、三越劇場での開幕を待つばかりといったところです。
慶応3年、4月末の午後。
長崎。上野彦馬撮影局。
こんなト書きから、この物語は始まります。
慶応3年はまさに幕末、江戸時代最後の年。
10月には討幕の密勅が薩長二藩に下り、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜が大政奉還を乞い、
12月、王政復古の大号令が発せられます。
翌慶応4年は鳥羽伏見の戦いで明け、9月には明治と改元されました。
いわゆる明治維新です。この年の長崎もまた、京都や江戸ほどではないが、
時代の激流の中にありました。
上野彦馬の撮影局(写真スタジオ)は開業して5年。
その腕が評判を呼んで、外国人ばかりでなく日本人の客も訪れるようになり、
特に維新の英傑たち、高杉晋作、若き日の伊藤博文、木戸孝允、
さらに坂本龍馬などが彦馬の写客となりました。
そのためか、討幕を旗印とする若者たちも頻繁に訪れ、
撮影局はさながら彼らの連絡や集会の場ともなっています。
しかし、写真術をきわめようとその研究に没頭し、科学者でもある彦馬自身は
あくまでも冷静に時代を眺めていて、次のように自分の立場を説明します。
「陰謀やら闘争で渦の巻いとるとは、京都や江戸たい。長崎に来たら呉越同舟、敵も見方もなかぁ。
それより私は、この先どう動くかが楽しみでね。遅かれ早かれ世の中動くよ。
そんな荒波の中で泳ぎまわってる連中の輝きば私は残しておきたかたと」
上野彦馬が撮影した「長崎の女たち」という一枚の写真――
これが『阿蘭陀影繪』創作のきっかけになったと、作者の金子成人さんは言います。
謎めいた写真で、そこに写るの女の一人は顔が剃られているのです。
そのように彦馬のスタジオには、男ばかりでなく女性たちもやってきました。
その一人が丸山の売れっ子芸者、一蝶です。
一蝶は若き志士たちのパトロン的存在でもありますが、
受け売りの革命思想などにとらわれぬ、女性特有の直感と時勢を見る確かな目を持っています。
政治は男の仕事とばかりに激論を交わす男たちに向かって、
「長崎ン港ば見てみんね。
オランダ、イギリス、フランス、ロシア、そこの太か船がひっきりなしに出入りしとります。
日本の国ば狙うとるそん国が本気になったら、日本はアッちゅうまに取られてしまうでしょうねえ。
その外国の人達の牙抜いとるとは私ら長崎の女ですよ。
こん国は私らが守っとるという、そン気概だけはあるとですよ」
と、言い放ちます。
一蝶はまた、キリシタンでもあります。それを隠そうとはしません。
もともと長崎は、16世紀のポルトガル船の来航と
イエズス会によるキリスト教の布教とともに栄えた港町です。
しかし、やがてキリスト教弾圧の時代となり、
二十六聖人の殉教や島原の乱などといった流血の悲劇が起こります。
それでも信者たちは隠れキリシタンとなってその信仰を守りました。
長崎の街を遠く離れた崎戸島で生まれ育った一蝶。
彼女の家も代々の隠れキリシタンだったのでしょうか。
いずれにせよ、このことが一蝶という女に微妙な陰影と魅力を添えていることは確かです。
ヒロインの一蝶、同じく芸者の菊春、置屋の小女すえと宿無し女きみといった
強くて明るくて、したたかで逞しい女たち。
亀山社中の仲屋俊介と平太、薩摩藩士の藪原小市郎、医学修業中の神林要、
奉行所の役人沢田伊三郎、さらに巳之吉と上野彦馬。
多彩な登場人物を配して展開する興味津々の時代絵巻『阿蘭陀影繪』
――文学座にまた一つ誕生する女性劇に、どうぞご期待ください。
8月・三越劇場公演『阿蘭陀影繪』は、幕末から明治にかけての長崎を舞台に展開します。
そこで、劇中に登場する歴史的な事象や名称を採り上げ、簡単な説明を加えて観劇の一助に供したいと思います。
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上野彦馬写真撮影局
大通詞名村花蹊に蘭語の手ほどきを受け、医学伝習所でポンペから化学を学び、
さらにフランス人ロッシェについて写真術を習得した上野彦馬が、
文久二年、長崎の中島川畔に写真撮影と販売と研究のために開いた写真スタジオ。
写真は人の魂を吸い取るなどの迷信がまだ根強かった当時のこと、
開設当初の客はほぼ、異国来訪の記念に写真をという外国人ばかり。
加えて、最小の名刺判でも写料が金2分(現在の3万円ほど)と高額で日本人には手が届かなかった。
当時はまだ、撮影と現像に多くの薬品が必要で原材料費も高く、決して暴利とはいえなかったのだが。
しかし、そうした外国人を通して彦馬の評判は高まり、次第に日本人の写客も増えていく。
とくに、坂本龍馬、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎(木戸孝允)など維新の志士たちの実像を、
我々が現在目にすることが出来るのも彦馬のおかげ。
明治24年、極東歴訪の途中に長崎に立ち寄ったロシア皇太子ニコライも彦馬のスタジオを訪れ、その姿を留めている。
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亀山社中
坂本龍馬が慶応元年閏5月ごろに組織した浪士結社。
薩摩藩の庇護のもとに交易の仲介や物資の運搬などを行なって利益を得、
同時に航海技術を習練して軍事面に役立てるという画期的な結社だった。
長崎の亀山に本拠を置いたので、この名があるが、正式には、ただの「社中」といった。
同年8月、薩摩名義で購入した七千三百挺の銃を長州に輸送して、
翌2年1月の薩長同盟の締結に大きな役割を果たした。
また同年6月には長州藩船ユニオン号に乗り込んで下関海戦に参加、幕府軍を攻撃した。
しかし、同年4月に購入したばかりのワイルウェフ号は翌月五島列島沖で沈没。
10月に購入した大極丸は代金未払いで就航できないなどの問題が続き、社中の運営は困難をきわめた。
結局、社中は龍馬の理想を実現することのないまま、翌3年4月に土佐藩の支配下におかれ、
海援隊に改編されることになる。
なお、社中のメンバーには身分出自の区別なく、全員同額の三両二分が毎月支給されていたとのこと。
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後藤象二郎と坂本龍馬
土佐藩の実力者で藩論をリードする後藤象二郎と、その土佐藩を脱藩して討幕運動に奔走する坂本龍馬とは、
慶応3年に長崎で会談し、従来の仇敵関係から一転する。
殖産興業政策推進のため長崎に土佐商会を設けた土佐藩が盛んに航海・貿易をやろうとすれば、
坂本配下の亀山社中のような航海術の達人がほしい。
一方坂本にしても、土佐藩をバックにすれば、いっそう活動の舞台が開ける。
こうして慶応3年4月、亀山社中は土佐藩のもとに海援隊として編成された。
かねて公議政体論の構想を抱いていた坂本は、長崎でこの説を後藤に吹き込んだ。
後藤も共鳴し、在京中の藩主山内豊信に建言しようと、6月、坂本らを帯同して京都に向かう。
そのとき船中で、坂本が後藤と協議して作成したのが「船中八策」で、
天下の政権を朝廷に返上し、上下議政局を設けるという構想である。
同月、後藤は坂本立会いのもとに、小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通ら薩摩藩の指導者と会見、
協議の結果、土佐藩論を基礎にして薩土盟約を結んだ。
これを期に長州を加えた三藩による倒幕の勢いが一挙に高まっていく。
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丸山
丸山は、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ天下の遊里。
江戸時代初期から繁栄を誇り、最盛期の元禄期には遊女が千四百人余もいたという。
井原西鶴は“長崎に丸山というところなくば、上方の金銀無事に帰宅すべし。
爰通ひ商い海上の気つかひの外、何時を知らぬ恋風おそろし”と、その繁盛振りを「日本永代蔵」で記している。
文学座の財産舞台『
ふるあめりかに袖はぬらさじ』と同様、長崎の遊女もまた、
日本行・唐人行・阿蘭陀行と、客とする相手が区別されていた。
江戸中期以降盛名を馳せたのが引田屋と筑後屋で、引田屋の宴会場が花月だが、
ここでは頼山陽・坂本龍馬・高杉晋作・勝海舟・岩崎弥太郎らが遊んだという。
今回の『
阿蘭陀影繪』のヒロイン
扇屋一蝶さんも、
丸山を中心とする長崎の花街で、その芸と艶姿を披露していたのだろうか。
文学座の「女優劇」について 森 秀男
文学座の「女優劇」の系譜をたどることを求められた。
「女優劇」とは、女性が主人公である芝居、もしくは複数の女たちが中心になって織り出されるドラマをさすが、
こういう発想が生まれてくること自体、文学座の中心にいた
杉村春子という女優の存在の大きさを端的に物語るものだろう。
杉村春子はいくつもの当たり役を持ち、それらは文学座の財産演目として再演を重ねてきたが、
その筆頭に挙げられるのが森本薫作『
女の一生』である。
戦争末期、情報局委嘱の国策劇としてかかれ、空襲の合間にかろうじて初演された作品だが、
敗戦の翌年に夭折した作者が病床でプロローグとエピローグを書き改めたことで蘇り、
戦後新劇を代表する名舞台の一つにかぞえられるに至った。
ヒロインの布引けいを演じつづけた杉村春子は、上演回数が947回に達した1990年に打ち止めを決めたが、
96年に
平 淑恵がけい役を継承して上演を再開した。
このときは初演台本の復活上演ということでも話題になったが、99年からは従来の改訂版にもどし、
初演以来の回数を1216回にのばした。
同じく森本薫の代表作の一つである『
華々しき一族』は、
23歳で書いたとは思えないほどに成熟した喜劇だが、1950年にようやく初演された。
ヒロインの諏訪を華麗に演じてきた杉村春子は、亡くなる前年の96年秋に、
ほぼ30年ぶりでアトリエの舞台に立ってこの女人像を活写し、
12月までの地方巡業を打ち上げたのが最後の舞台になったのである。
諏訪の役をいつ誰が受け継ぐかは難しい課題だが、文学座の財産としてレパトリィから消してほしくないと思う。
有吉佐和子作『
華岡青洲の妻』は、もともとは東宝の芸術座で初演されたものである。
文学座から新作を依頼された作者の希望で、1970年に改訂上演したのが成功し、
それ以後、青洲の母於継を演じた杉村春子のために書かれたような印象を与えるまでになった。
杉村春子は文学座の公演だけでなく、新劇合同公演や新派、歌舞伎の俳優とも共演したが、
これは当たり役のなかでも珍しい例だろう。
文学座では98年の杉村春子追悼公演としての上演で、
演出が
戌井市郎から
江守 徹に変わり、於継を
吉野佳子、青洲を
外山誠二、
妻加恵を
渡辺多美子と配役も一新して再出発している。
有吉佐和子が杉村春子のために書いた『
ふるあめりかに袖はぬらさじ』は、
1972年の初演で、これも94年まで再演を重ねたが、晩年の杉村春子は
幕末の横浜に流れついた三味線芸者お園をいちばん気に入った役として新しい工夫を怠らなかった。
91年と94年に花魁亀遊役で共演した
新橋耐子が99年にお園役を継承している。
三遊亭円朝原作、大西信行脚本の『
怪談牡丹燈籠』を「女優劇」のなかに入れるのはおかしいかもしれない。
しかし、杉村春子の伴蔵の女房お峰と乳母お米の幽霊の二役は、絶妙のうまさで、
北村和夫とのコンビも息が合っていた。
これは、74年の初演から95年までに三度上演されたが、98年に
新橋耐子がお峰・お米役を受け継いだ。
このほか水木洋子作『
近松女敵討』のおさいもあるが、杉村春子がもう一度やりたいと
言っていたのは宮本研作『
新釈金色夜叉』の赤樫満枝である。
翻訳劇はあえて省いたが、テネシー・ウィリアムズ作『
欲望という名の電車』のブランチを
1953年から87年までに594四回演じつづけたことだけは挙げておかねばなるまい。
杉村春子の遺産について、つい長く書きすぎたが、
それらが文学座の女性劇の主流をかたちづくってきたこともわかってもらえるだろう。
むろん文学座には主役を演じられる力倆を持った女優たちが何人も揃っている。
そのなかでも早くから恵まれた資質と魅力を発揮し、
杉村春子の後継者としての可能性を一番よく感じさせたのは
太地喜和子だったが、
92年秋、山本有三作『
唐人お吉物語―女人哀詞―』の旅公演中に、
不慮の事故で帰らぬ人となってしまったのが惜しまれてならない。
しかし、すでに名前を挙げた
吉野佳子、新橋耐子、平 淑恵のほか、
松下砂稚子、稲野和子、寺田路恵、倉野章子、神保共子らを加えた女優たちが、
一方では財産演目を受け継ぎながら、他方では創作劇にせよ、翻訳劇にせよ、
意欲的な新作に挑んで、文学座の「女優劇」を多彩なものにふとらせる努力をしているのはたのもしい。
こんどの金子成人の新作『
阿蘭陀影繪』は、幕末から明治へと急転する長崎を舞台に、
時代の潮流を身近に聞きながら、自分なりの生きかたを貫き通す女を主人公にして、歴史の虚実を描くという。
文学座の「女優劇」の系譜に新しい要素を加えるものになってほしいと思う。
(演劇評論家)
またひとつ
女の方が偉く思えてきた
またひとつ
男のずるさが見えてきた
──河島英五「酒と泪と男と女」より
自分の生きるべき場所にしっかりと根を据え、
歴史に名を残すことはなくとも、逞しくしたたかに生きていく女と、
常に風のように漂いながら、時には女を踏み台にして憚らぬ男たち。
8月の三越劇場公演、金子成人=作、戌井市郎=演出『阿蘭陀影繪』には、
そんな女と男の姿が浮き彫りされているように思われます。
すでに財産舞台ともなっている『女の一生』『華岡清州の妻』『ふるあめりかに袖はぬらさじ』等々の、
文学座の「女性劇」の系譜に、またひとつ、新たな一作が加わりました。
時は幕末、舞台は長崎。ヒロインの芸者一蝶を
平 淑恵が演じます。
この街で育ち、この街で女と芸を磨き上げ、時代の奔流を巧みに泳ぎきる一人の女と、
他国からこの街に流れ着き、また水草のように流れ去っていく男たちの物語です。
作者の
金子成人さんについては、改めてご紹介するまでもないでしょう。
映画やテレビの脚本家として、近年は劇作家としても数多くの優れた作品を発表しておられますから。
1949年、長崎県出身。
シナリオ研究所卒業後、倉本聰氏に師事。
72年、TBS水曜劇場「おはよう」でデビュー。
日本脚本家連盟理事。
シナリオ作品には、NHKの「物書同心いねむり紋蔵」、TBS「天城越え」「女正月」、
テレビ朝日「新・新宿かわせみ」、テレビ東京「日本名作劇場―雁/にごりえ」等々があり、
テレビ東京の連続ドラマ「魚心あれば嫁心」とTBS「終わりのない童話」によって、
1997年度の第16回向田邦子賞を受賞しました。
東宝「タスマニア物語」などの映画シナリオのほか、
佐藤B作プロデュース・紀伊國屋ホール『吉ちゃんの黄色い靴』、
帝劇『女系家族』、紀伊國屋ホール『父の詫び状』、
新橋演舞場『浅草慕情―なつかしのパラダイス』などがあります。
なお、金子成人さんと文学座との出会いは今回が二度目。
フェリーニ監督の映画「道」を、
演出の
小林勝也と共同で脚色した『ジェルソミーナ』が84年に上演されてます。
作者は自らの郷里を素材にして、今回の『
阿蘭陀影繪』を書き下ろしました。
江戸幕府の鎖国政策によって外国との唯一の窓口となった長崎には、
オランダをはじめとする外国人が常に出入りし、
彼らのもたらす文物を求めて日本各地から多くの人々が集まりました。
いわゆる「蘭学」もそのひとつで、医・薬学、天文・暦学、地理、兵学、化学などの
先進の学問が翻訳書を通して全国に普及します。
幕末にはこの地に海軍伝習所や長崎養成所(病院兼医学校)も開設され、
航海術や軍事、医学の面で幾多の俊才がここから巣立ちました。
劇中で語られる「亀山社中」は坂本龍馬が慶応元年に組織した浪士結社。
薩摩藩の庇護の元に交易の仲介や物資の運搬などを行なって利益を得、
同時に航海技術を習練して軍事面に役立てるという、商事会社をかねた小軍隊でもありました。
また、上野彦馬は、横浜の下岡蓮杖らと並ぶ日本発のプロカメラマンの一人。
1839年にフランスで発明された写真は、1848年、
彦馬の父で長崎の商人上野俊之丞がダゲレオタイプの機材一式を輸入して日本に伝わります。
金属板に精密な画像を映し出すダゲレオタイプは、
薩摩藩主島津斉彬の手に渡り「印画鏡」と呼ばれました。
彦馬は長崎の医学伝習所でポンペに化学を学び、写真術の研究も始めます。
のちにはフランス人写真家ロシエに湿板写真術を学び、
1862年(文久2年)に長崎で写真局(写真スタジオ)を開設します。
長崎にはまた、虚実とりまぜて数多くの女性たちもその影を留めています。
観光名所グラバー邸で着想されたという「マダム・バタフライ」の蝶々夫人、ミセス龍馬のお龍さん、
シーボルトと丸山の遊女其扇との間に生まれ、
後にわが国最初の産婦人科女医となった楠本いねさん、
そして、今回の『阿蘭陀影繪』の主人公一蝶さん。
その一蝶さんとほぼ同じような境遇に育ち、
歴史研究家古賀十二郎を助けて長崎地方の民謡採集に尽力した、
ご存じ、なかにし礼氏の直木賞受賞小説「長崎ぶらぶら節」のヒロイン愛八姐さんと、
まことに多士済々です。