《秋の蛍》は、公演を終了いたしました。
劇場においでいただいた方、応援してくださった方、ありがとうございました。


文化庁芸術創造特別支援
2001年11月 文学座公演/紀伊國屋書店提携


作:鄭 義信
演出:松本祐子


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配 役 物 語 どんな舞台?


出演:
坂口芳貞・大滝 寛・若松泰弘・名越志保・石橋徹郎


:スタッフ:
装置
……
神田 真
照明
……
金 英秀
音響効果
……
深川定次
衣裳
……
前田文子
舞台監督
……
黒木 仁
演出補
……
望月 純
制作
……
古川幸洋

2001年11月14日(水)〜22日(木)

新宿・紀伊國屋ホール

公演日程
2001年 11月
14 15 16 17 18 19 20 21 22
開演
時間
13:30 - - -
18:30 - - -


料金(税込・全席指定)●¥5,500
学割 ¥3,800(取扱いは文学座のみ・詳しくはお問合せください)


【 配 役 】

井上タモツ …… 石橋徹郎
井上修平 …… 坂口芳貞
井上文平 …… 若松泰弘
吉田サトシ …… 大滝 寛
小林マスミ …… 名越志保

【 物 語 】
タモツの父・文平は21年前、若い女性と駆け落ちしていた。
それ以来、タモツはおじの修平に育てられ、場末の貸しボート屋を二人で細々とではあるが経営し、
慎ましく幸せに暮らしていた。

そんな夏の終わりの昼下がり、親子のように暮らす二人の下に、
失業中のサトシが転がりこむ。
それが糾う波のたち始め、今度はお腹の大きな訳有りのマスミという女性が訪ねてきた。
そして、ここで一緒に暮らすと言う……。

都会の片隅に寄り合うごくごく普通で、ちょっぴりさびしがりやの女と男たち。
そんな4人が季節はずれのホタルに見たものは……。

【どんな舞台?】
 
気鋭の劇作家・鄭 義信さんの期待作『秋の螢』が来る11月14日に待望の初日を迎えます。
演出は、6月アトリエの会『ペンテコスト』でも確かな手腕を発揮したばかりの松本祐子
鄭さんとコンビを組んだ一昨年のアトリエの会『冬のひまわり』では、初演ながらすでに見事な舞台成果を上げていました。エネルギッシュな演出ぶりは今回も健在、演技陣もそれに応えてそれぞれの役づくりを深めつつあります。14日からの新宿・紀伊国屋ホール公演に是非々々足をお運びください。

前作『冬のひまわり』の上演に先立って、作者は次のような抱負を語っていました。
 「日本の家族が崩壊している中で、これだけ隠し立てずにお互いをぶつけ合えるのは、ある意味で幸福な人たち。人間のこっけいでいて、せつなく、かなしいものが出ればいいなと思っている」
 今回の『秋の螢』にも同じことが言えるのかもしれません。都会の片隅にある公園のボート乗り場に吹き寄せられてきた女と男たち。はじめ反撥し合っていた彼らがいつしかお互いを家族のように意識し始めます。前作同様、いわば擬似家族を形成していくのですが、そこにもやはり我々現代人のどうしようもない孤独感と、それ故にこそ生まれるやさしさが鮮烈に浮かび上がってくるようです。
 演出者もまた、前作上演に際して、
 「登場する人物は皆、わがままで駄目な人ばかりですが、人間くさくて、切なくて、一生懸命生きようとしている。その会話と日常をリアルに見せたい」
 と述べています。その思いは今回も変わらないでしょう。

『秋の螢』は98年5月、NHKのBSハイビジョンと教育テレビで放映された「芸術劇場」のために書かれた作品です。とは言っても普通のテレビドラマとは違って、スタジオに一杯道具を組み、そこで舞台と同じようにドラマが進行しました。タモツ―吹越 満、修平―坂口芳貞、文平―千葉哲也、サトシ―松本きょうじ、マスミ―西山水木の配役で放映されたこの作品は広く注目を集め、その好評を受けて今回の舞台化が実現したのです。戯曲として多くの手直しも加えられました。
 今回の舞台には“池”が登場します。そこには本水(本物の水)が張られます。この本水がドラマにどんな面白い効果をもたらすのか。もしかしたら、季節はずれの“螢”も飛ぶかもしれません。どうぞお楽しみに。

ここからは余談となります。いまや都会の近辺では、いや、全国でも限られた地域でしか見られなくなりましたが、螢は夏の夜を彩る代表的な日本の風物詩でした。今も昔も多くの文学作品に螢は登場します。近年では、野坂昭如『火垂るの墓』や宮本輝『螢川』が有名ですし、ほかにも山本周五郎『ほたる放生』、大江健三郎『ほたる』、高樹のぶ子『螢の挽歌』、伊集院静『螢ぶくろ』など枚挙にいとまありません。かつての卒業式では『螢の光』が必ず歌われましたし、詩歌や俳句にも多くの名作があります。
 蛍飛ぶ野沢に茂る芦の根のよなよな下に通ふ秋風――藤原良経
 蛍火の今宵の闇の美しき――高浜虚子
 親一人子一人蛍光りけり――久保田万太郎
 さらに、演歌にも『蛍』があり、スピッツのヒット曲は『ホタル』です。最近では高倉健さんの主演映画『ホタル』もありました。

鄭 義信(ちょん うぃしん)
 1957年(昭和32年)、兵庫県姫路市生まれ。同志社大学文学部中退、横浜放送映画専門学校(現・日本映画学校)美術科を卒業。松竹で美術助手に就く。その後、演劇に活動を移し劇団「黒テント」を経て、1987年、劇団「新宿梁山泊」の旗揚げに参加。大掛かりな舞台装置とアジア各地でも公演活動を展開する座付き作者として、『千年の孤独』(テアトロ賞受賞)、『人魚伝説』(ドイツ・エッセン国際演劇祭参加)、『映像都市〜チネチッタ』、『青き美しきアジア』などスペクタクル感溢れる話題作を連発して発表し、新進気鋭の劇作家として各方面から熱い視線を多く集める。1993年には『ザ・寺山』を発表し、翌年の第38回岸田國士戯曲賞を受賞するなど現代の演劇界を語る上では欠かせない存在となる。
 旺盛な演劇活動の傍ら、脚本家として映画界にも進出。1991年の東映Vシネマ『襲撃Burnig Dog』、1992年には、短編『月はどっちに出ている』を手がけ、翌年1993年に同盟長編『月はどっちに出ている』で崔洋一監督と共同脚本を担当する。この脚本の持つ独特のユーモアときめ細やかなキャラクター描写は絶賛を浴び、1994年の毎日映画コンクール脚本賞などを受賞。この作品では数々の映画祭で作品賞、演技賞などを獲得し日本アカデミー賞優秀脚本賞も受賞する一方、映画興行でも役半年間のロングランを記録し、時代を代表するヒット作となる。
 1996年に新宿梁山泊を退団。さらに活動の場を広げ、映画界では1995年『東京デラックス―平成無責任一家』、1996年に井筒和幸監督との『岸和田少年愚連隊』、1998年『犬、走るDOG RACE』では崔監督との絶妙なコンビネーションを見せている。また同年に単独で執筆した平山秀幸監督との『愛を乞うひと』でキネマ旬報脚本賞、日本アカデミー賞最優秀脚本賞、第1回菊島隆三賞、アジア太平洋映画祭最優秀脚本賞を受賞するなど、今後の活躍が大いに期待される脚本家の一人である。
 さらに『世にも奇妙な物語』、『中学生日記』、『真夏のクリスマス』などをはじめとしたテレビ・ラジオのシナリオでも活躍する一方、エッセイ集「アンドレアスの帽子」なども出版、映画・演劇界のみならず、各方面からさらなるその活動が待ち望まれている。

さすらいの作家・鄭義信  斎藤偕子

わたしが初めて鄭義信の作品の世界に接したのは、金盾進演出の新宿梁山泊上演になる『千年の孤独』です。
浅草常磐座で1989年に再演された評判の舞台でした。
劇場の入り口で入場を待たされた観客の前に現われた役者の群れによって芝居は始められ、ぞろぞろと劇場内に呼び込まれて続きます。
後にテントを持つようになった同劇団の舞台は、すでに既成の劇場の枠をはみ出し、観客席と舞台の仕切りも越えて躍動し、混沌とした熱気に観客を包み込んでいました。
それは舞台づくりに関するだけのことではありません。
作品そのものが、現実と幻想のあいだを奔放に行き来しながら、根無し草の人びとを吹き寄せがんじがらめにする現実と、彼らの激しい夢や憧憬にのって広がる幻想空間が交錯して、熱っぽく猥雑に展開していたのです。
そう、鄭 義信の作品は、その後新宿梁山泊で上演された『人魚伝説』('90)、『映像都市・チネチッタ』('90)『ジャップ・ドール』('91)なども、流山児事務所公演の『ザ・寺山』(岸田國士戯曲賞受賞)や結城座上演の『水の国のガリバー』も、やはり吹き溜まりでうごめく人びとの溢れる夢とエネルギーを広げ複雑に絡み合う叙情的な世界だったのです。
このような奔放な作品とは対照的に、彼には劇場内のステージにおさまり、リアリスティックでじっくりと見せる比較的小規模な作品があります。
わたしにとって、その代表的な作品と舞台が1999年に文学座アトリエで上演された『冬のひまわり』でした。
それにしても、表現の仕方は異なって見えても、登場人物に目をこらすと、本質的に一貫した鄭義信の世界が浮かびます。
一人一人が、現実に根を下ろし得ないでぞっとする不安や孤独の淵をさまよい、それゆえに自己の存在をかけた夢、憧憬、愛などへの希求を、どんなことをしていても断つことができません。
そして内面深くに抱え込んだあい反する思いに身動きもできず滑稽に悪あがきしているのです。
そういう人びとがなんとなく吹き寄せられている世界が舞台となっています。
ある意味ででたらめな人びとの圧倒的な存在感と、彼らの内からじわっと広がる孤独感の漂う空間が、俳優の存在感と一体となって、あのアトリエの狭い舞台を魅力あるものとしていました。
鄭義信の世界の魅力を解くキーワードを一つ取り上げると、それは「さすらい」ということになるのかもしれません。
彼には映画のシナリオ作品もあって、広く知られた『月はどっちに出ている』や『愛を乞うひと』などその代表作ですが、メディアの違いを越えてリアリスティックな人間描写と彼らの生きざまへの視点は同じです。
彼自身が、生まれ育った日本語を母語とした国と、ほかのことばで喋る異郷の母国を持つ存在の二重性を持たされ、関西の生家の記憶や在日として否応なく持たされてきた意識等々、複雑に人生を歩んできた要素も、無視できないでしょう。
しかしむしろ、彼のからだの中でそれは特定な呼称を越えて普遍的な人間の状況となり、創造世界のなかで具体的な「さすらい」を形成しているのではないでしょうか。
さすらう人は、現実の過酷さを引きうけ、人一倍非情で傷つけ合うかもしれません。
それでも普通に人間的である以外の何モノでもないということ、しかし孤独を知っている点で、内面深くに激しい希求と、優しさすらを抱いているのです。
『月はどっちに出ている』の監督崔 洋一も月は希望でありやさしさの象徴であると述べていますが、『冬のひまわり』のひまわりも、かっと輝く花を冬に求める絶望的な希望と、凍る庭に植える心根を暗示していると言えます。
秋の蛍』をわたしは知らないので的外れかもしれませんが、タイトルから、季節外れにあやかな光を放つ螢に寄せる同じ思いを、感じ取るのです。
彼はかつて「さすらい論」というエッセイを書いています。
少年時代の彼の周辺には、何処からともなくやってきて、何時とはなく何処かへ去っていく人がいました。
彼自身その後東京に出て生きるアイデンティティを求めたとき、そういう人たちや彼の家族の「さすらい」を見、国籍や人種を問わずさまざまのさすらい人を、身近に感じるようになるのです。
そして彼は、人びとがごちそうを用意して霊を家に招き入れ、食事を振る舞うチェサという朝鮮の祭祀のことを最後に記しています。
なかでも、さすらいの中で倒れた無縁仏のために行なわれるチェサがあり、演劇は無縁仏のチェサに似て、自分を含めさすらっている人を一時もてなすようなものだと言うのです。
『冬のひまわり』でも、いがみ合う孤独な人びとが最後に同じテーブルを囲んで年越しそばを食べ、朝には正月のおせちを囲んでいました。
『秋の蛍』では、なにが振る舞われるのでしょうか。(演劇評論家)
(文学座通信11月号より)


文学座アトリエで上演された鄭義信の新作戯曲『冬のひまわり』は、
孤独で傷ついた男女が繰り広げる「擬似家族ゲーム」とも呼べる作品だ。
社会規範から外れた彼らのわがままでぶざまな生き方は、切ないまでに滑稽だが、
家族崩壊など対人不安に陥ってる現代人に不思議な感動と共感を与える。
傑作だけに劇場を移しての再演を期待したいところだ。――共同通信・(俊)氏
一昨年の7月にアトリエの会で上演した、鄭 義信=作、松本祐子=演出『冬のひまわり』は大好評を博しました。
その二人が、来る11月の紀伊國屋ホール公演『秋の螢』で再び作・演出コンビを組むこととなり、
さらに充実した興味深い舞台が期待されます。

今回の『秋の螢』はもともとテレビのために書き下ろされた作品です。
98年5月にNHK・BSハイビジョンと教育テレビの「芸術劇場」で放映され注目を集めました。
坂口芳貞が今回と同じ役で出演しています。
その修平とタモツは伯父・甥の間柄ですが、サトシとマスミは二人にとっても赤の他人。
この四人が前作と同様に、いつのまにか「擬似家族」のように暮らし始めるのです。
そしてやはり、彼らの孤独で傷ついた心やぶざまな生き方が、私たちの涙と笑いを誘います。
劇作家としてだけでなく、近年は『月はどっちに出ている』や『愛を乞うひと』などの脚本家としても
数々の映画賞を獲得している鄭義信さん。
今回のテレビ作品の舞台化でも、その本領は存分に発揮されることでしょう。
どうぞお楽しみに!


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