2001.07.30新設 11.22更新
《秋の蛍》は、公演を終了いたしました。
劇場においでいただいた方、応援してくださった方、ありがとうございました。
文化庁芸術創造特別支援
2001年11月 文学座公演/紀伊國屋書店提携

作:鄭 義信
演出:松本祐子
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配 役 物 語 どんな舞台?
:スタッフ:
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| 2001年 | 11月 | |||||||||
| 日 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | |
| 曜 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | |
| 開演 時間 |
13:30 | - | ○ | - | ○ | ○ | - | ○ | ○ | ○ |
| 18:30 | ○ | ○ | ○ | - | - | ○ | ○ | ○ | - | |
わたしが初めて鄭義信の作品の世界に接したのは、金盾進演出の新宿梁山泊上演になる『千年の孤独』です。
浅草常磐座で1989年に再演された評判の舞台でした。
劇場の入り口で入場を待たされた観客の前に現われた役者の群れによって芝居は始められ、ぞろぞろと劇場内に呼び込まれて続きます。
後にテントを持つようになった同劇団の舞台は、すでに既成の劇場の枠をはみ出し、観客席と舞台の仕切りも越えて躍動し、混沌とした熱気に観客を包み込んでいました。
それは舞台づくりに関するだけのことではありません。
作品そのものが、現実と幻想のあいだを奔放に行き来しながら、根無し草の人びとを吹き寄せがんじがらめにする現実と、彼らの激しい夢や憧憬にのって広がる幻想空間が交錯して、熱っぽく猥雑に展開していたのです。
そう、鄭 義信の作品は、その後新宿梁山泊で上演された『人魚伝説』('90)、『映像都市・チネチッタ』('90)『ジャップ・ドール』('91)なども、流山児事務所公演の『ザ・寺山』(岸田國士戯曲賞受賞)や結城座上演の『水の国のガリバー』も、やはり吹き溜まりでうごめく人びとの溢れる夢とエネルギーを広げ複雑に絡み合う叙情的な世界だったのです。
このような奔放な作品とは対照的に、彼には劇場内のステージにおさまり、リアリスティックでじっくりと見せる比較的小規模な作品があります。
わたしにとって、その代表的な作品と舞台が1999年に文学座アトリエで上演された『冬のひまわり』でした。
それにしても、表現の仕方は異なって見えても、登場人物に目をこらすと、本質的に一貫した鄭義信の世界が浮かびます。
一人一人が、現実に根を下ろし得ないでぞっとする不安や孤独の淵をさまよい、それゆえに自己の存在をかけた夢、憧憬、愛などへの希求を、どんなことをしていても断つことができません。
そして内面深くに抱え込んだあい反する思いに身動きもできず滑稽に悪あがきしているのです。
そういう人びとがなんとなく吹き寄せられている世界が舞台となっています。
ある意味ででたらめな人びとの圧倒的な存在感と、彼らの内からじわっと広がる孤独感の漂う空間が、俳優の存在感と一体となって、あのアトリエの狭い舞台を魅力あるものとしていました。
鄭義信の世界の魅力を解くキーワードを一つ取り上げると、それは「さすらい」ということになるのかもしれません。
彼には映画のシナリオ作品もあって、広く知られた『月はどっちに出ている』や『愛を乞うひと』などその代表作ですが、メディアの違いを越えてリアリスティックな人間描写と彼らの生きざまへの視点は同じです。
彼自身が、生まれ育った日本語を母語とした国と、ほかのことばで喋る異郷の母国を持つ存在の二重性を持たされ、関西の生家の記憶や在日として否応なく持たされてきた意識等々、複雑に人生を歩んできた要素も、無視できないでしょう。
しかしむしろ、彼のからだの中でそれは特定な呼称を越えて普遍的な人間の状況となり、創造世界のなかで具体的な「さすらい」を形成しているのではないでしょうか。
さすらう人は、現実の過酷さを引きうけ、人一倍非情で傷つけ合うかもしれません。
それでも普通に人間的である以外の何モノでもないということ、しかし孤独を知っている点で、内面深くに激しい希求と、優しさすらを抱いているのです。
『月はどっちに出ている』の監督崔 洋一も月は希望でありやさしさの象徴であると述べていますが、『冬のひまわり』のひまわりも、かっと輝く花を冬に求める絶望的な希望と、凍る庭に植える心根を暗示していると言えます。
『秋の蛍』をわたしは知らないので的外れかもしれませんが、タイトルから、季節外れにあやかな光を放つ螢に寄せる同じ思いを、感じ取るのです。
彼はかつて「さすらい論」というエッセイを書いています。
少年時代の彼の周辺には、何処からともなくやってきて、何時とはなく何処かへ去っていく人がいました。
彼自身その後東京に出て生きるアイデンティティを求めたとき、そういう人たちや彼の家族の「さすらい」を見、国籍や人種を問わずさまざまのさすらい人を、身近に感じるようになるのです。
そして彼は、人びとがごちそうを用意して霊を家に招き入れ、食事を振る舞うチェサという朝鮮の祭祀のことを最後に記しています。
なかでも、さすらいの中で倒れた無縁仏のために行なわれるチェサがあり、演劇は無縁仏のチェサに似て、自分を含めさすらっている人を一時もてなすようなものだと言うのです。
『冬のひまわり』でも、いがみ合う孤独な人びとが最後に同じテーブルを囲んで年越しそばを食べ、朝には正月のおせちを囲んでいました。
『秋の蛍』では、なにが振る舞われるのでしょうか。(演劇評論家)
(文学座通信11月号より)
文学座アトリエで上演された鄭義信の新作戯曲『冬のひまわり』は、
孤独で傷ついた男女が繰り広げる「擬似家族ゲーム」とも呼べる作品だ。
社会規範から外れた彼らのわがままでぶざまな生き方は、切ないまでに滑稽だが、
家族崩壊など対人不安に陥ってる現代人に不思議な感動と共感を与える。
傑作だけに劇場を移しての再演を期待したいところだ。――共同通信・(俊)氏
一昨年の7月にアトリエの会で上演した、鄭 義信=作、松本祐子=演出『冬のひまわり』は大好評を博しました。
その二人が、来る11月の紀伊國屋ホール公演『秋の螢』で再び作・演出コンビを組むこととなり、
さらに充実した興味深い舞台が期待されます。
今回の『秋の螢』はもともとテレビのために書き下ろされた作品です。
98年5月にNHK・BSハイビジョンと教育テレビの「芸術劇場」で放映され注目を集めました。
坂口芳貞が今回と同じ役で出演しています。
その修平とタモツは伯父・甥の間柄ですが、サトシとマスミは二人にとっても赤の他人。
この四人が前作と同様に、いつのまにか「擬似家族」のように暮らし始めるのです。
そしてやはり、彼らの孤独で傷ついた心やぶざまな生き方が、私たちの涙と笑いを誘います。
劇作家としてだけでなく、近年は『月はどっちに出ている』や『愛を乞うひと』などの脚本家としても
数々の映画賞を獲得している鄭義信さん。
今回のテレビ作品の舞台化でも、その本領は存分に発揮されることでしょう。
どうぞお楽しみに!
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