2001.07.30新設 12.06更新 12.12修正

文化庁芸術創造特別支援
2001年12月 文学座アトリエの会




作:川村 毅
演出:藤原新平


ここをクリックするとチラシ拡大版がご覧いただけます。
(108kBあります。ご注意ください。)

配 役 物 語 どんな舞台? 


出演:
小林勝也戸井田稔・城全能成
赤司まり子征矢かおる山本深紅大野容子

:スタッフ:
美術
……
藤野級井
照明
……
金 英秀
音響効果
……
深川定次
舞台監督
……
望月 純
制作
……
伊藤正道

2001年12月6日(木)〜18日(火)

信濃町・文学座アトリエ(ここをクリックすると地図が出ます)

文学座アトリエ
2001年 12
6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18
開演
時間
14:00 - -
19:00 - - - - - -

前売・予約開始●2001年11月5日(月)

料金●前売・電話予約3,500円/当日3,800円(税込・全席指定)
チケット取り扱い●文学座03−3351−7265(10時〜17時30分/日祝を除く)
●チケットぴあ03−5237−9988/9999

お問合せ●文学座 03−3351−7265(10時〜18時/日曜・祝祭日を除く)



【 配 役 】
…… 小林勝也
…… 山本深紅
眼帯 …… 戸井田稔
青年 …… 城全能成
ママA …… 赤司まり子
ママB …… 征矢かおる
ママC …… 大野容子

【 物 語 】
121回目の有料記者会見で「男」はしゃべる。

―――この沼だって、もうすぐ膝の上までくるんだ、
知らないうちにのみこまれるんだよ、
この沼に、知らない間に。
ここの牛蛙だって生き放題さ、
ついさっきまで人に喰われてたのが、
いつのまにか人が喰われてたりしてね。
わたしは生きのびるよ、絶対に!(笑)―――

【どんな舞台?】

蛙あちこち
川村 毅

 アーティストへのインタビュー記事というものがあるが、読み物として楽しむことはあっても内容はほとんど信用しない。そこに創作の核、謎が語られているとは到底思えない。
 知り合いのライターにインタビュー好きがいてかつて矛先は私にも向けられたりしたのだが、まったく私はいい加減なものだった。いや、この言い方は正確ではない、誠意を持って対しようとすればするほど話の論理の一貫性にブレが生じてくる。しかも厄介なのはそうこうするうちにそうした現象のほうに興味をそそられて、おかまいなしにブレと戯れていたい欲求にかられ、前半に言っていたこととまるで違う結論にたどり着いてしまったりした。
 インタビュー記事など信じたりしないほうが言いというのは、こうした実体験に基づいて言っているのであって、そうしたものとわかっていないといたいけな読者は畢竟ひどい目に遭う。もちろんこうしたことは私に限られることで他の人々はそれぞれに一貫した人生観、芸術館を開陳されているに相違いないのだろうが、どうもそうした「わかりやすさ」の表象には退屈を感じる、一定したアーティスト像を演じるのに躊躇を覚えてしまう。
 おそらく私はただ演技が下手なのだろう、しかし人格の解離もまた人間があらかじめ潜在させる演技性だとして、果たしてどちらの演技が高等技術を要するだろうか、どちらが一般大衆の拍手を浴びるのだろうか。
 私は何も今回の劇の主人公の男が私自身であると言いたいわけでは毛頭ない。考えがあちこちに飛び、安定しない脳味噌にこうした男が生まれ出てしまったというだけのことで、主人公を裁断もしなければ批評もしてはいない。ただこうした男が妄想の実体として存在してしまったのだ。
※             ※            ※
 先日私は牛蛙を食べさせる店を新聞で読み、中野に向かった。
 合掌造りの店で囲炉裏を囲む座敷を中心にほかにカウンター席が10ほどあり、作り物ではない陰影があちこちに見られる。女将に聞けば開店して40年だという。カウンターに腰をおろした私は牛蛙の刺身を注文し、わくわくとした気分を押さえながら、尚も店内観察に明け暮れ、出入り口の木戸に近い水槽を発見し、すわここに蛙がと近づくと中の主はスッポンだった。さては蛙は隠してやがるなと席に戻ると、初老の板前が陶製の洗面器を片手に厨房を出てスッポンの水槽に足を向けるので、再び腰を上げると、果たして水槽の下の暗がりにもうひとつ別の水槽があり、暗い水の中に8匹ほどの牛蛙が暗然と佇んでいるのであった。
 板前は私の視線から隠すかのようにすばやく1匹を掴み上げ、すばやく洗面器に入れて囲炉裏のある座敷の傍らに行くと、女将が「見ないほうが良かったんじゃないの」と私に言うので、「平気平気」と升に入った冷や酒をすすった。かえるは体長20センチほどであった。
 私は身を乗り出し厨房の板前の背中を見ていた。蛙の姿を客に見せないようにするのは培われてきた料理人の配慮なのであろう、どうやら蛙は蛇口から流れる水に晒されているらしい。次にその身がまな板にうつされ、ぴんと伸びた両足が板前の背中から外れて微かに見える。頭が切断されて流し場に落とされる。血が抜かれているようだ。皮が剥がれる。白い胴となった蛙をもはや板前は隠そうとはしない。すばやい動きで胴に刃が入れられていく。
 蛙をいたぶった幼少時の記憶が蘇る。私の育った土地は横浜の新興住宅地で森と田圃と舗装されたばかりの道路と高度経済成長期の会社員家族たちの夢が託された新築家屋が同居するところだった。新興住宅地一世の子供になった私達は田圃で蛙を捕らえ、それをアスファルトの舗道にたたきつけて殺し、皮を剥ぎ、マッカチンと呼ばれた巨大なアメリカザリガニを釣り上げるための餌としたのだった。
 刺し身が出された。見た目は鶏のササミに似ているが、味は似ていない、それは蛙の味なのだった。適度な歯ざわりの後に柔らかくなった肉はのどを滑ってすとんと内臓に落ちていく。
 唐揚げが出された。残った骨をそうしたものだ。骨には肉がまだ多少付いていて、それとともに骨をしゃぶるのだ。以前は刺し身も骨の付いたまま出していて醤油をかけると太ももの神経が刺激されて痙攣したのだという。次はそうやって食べたいと私は女将に告げた。
 いつしか隣の老人と話が弾み始め、戦争中田端近くに『鳩の町』と呼ばれる私娼窟があったことなどを聞いた。亡くなった私の父親と同年代だった。私は老人の話をすべて記憶しておこうと心掛けた。文書として記録されていないかもしれないこうした日本人の記憶を。
 女将によれば牛蛙は現在主に土浦あたりで捕れるのだという。
(文学座通信12月号より)

怒りを込めて振り返る
藤原新平

 大辞泉に依れば牛蛙とは「アカガエル科のカエル。体長15〜20センチ。体色はふつう雄は暗緑色、雌は褐色で、ともに黒褐色の斑紋がある。雄の鼓膜は雌より大きい。雄は牛に似た太い声で鳴く。北アメリカの原産で大正時代に輸入され、各地で繁殖。ブルフロッグ。食用蛙」とある。
 牛のように鳴くから牛蛙である。アカガエルは食って美味いそうだ。今でも焼いて食べさせる飲み屋が池袋辺りにあるということを聞いたが、私は食欲は起こらない。戦後食べ物がなくての飢餓時代には蛋白源の補給で結構上等で庶民的普遍的な食べ物であったらしい。が、このグルメ時代喜んで食うやつはあまりいないだろう。牛蛙が輸入されたのだとするとやはり食用としてであろうか。その他の用途はちょっと思いつかない。食用のためなら食用蛙といわれてもしかたがないかもしれない。しかし牛だって食用のものもある。馬、豚、鶏、何だって人間はグルメで食用にしてしまう。グルメ時代だから食うかもしれない。しかしそれにもかかわらずとりわけて牛蛙のみが食用と名づけられるのは、彼らが生まれる以前から犠牲者として被害者としてその生を運命づけられているとしか言いようがないではないか。
 そしてこの『牛蛙』という芝居は、私に言わせればまさにこの牛蛙のいわば復讐として書かれたものである。いかに恨みつらみが深いものであったか思い知らされる。
 牛蛙こと食用蛙は今や反対に人間を食うくらいまで成長し、増殖しつつあるのだ。この芝居を見て現実に眼を振り戻せば、この牛蛙は単なる食用蛙ではなくして、ある別の意味を持つ存在であることがわかるだろう。この芝居をあなた方が奇妙なものと思ったら、それがあなた方が生きている現実なんだということなのだ。そしてもちろん牛蛙が生息しているこの沼も新たな意味を持つだろうし、いずれ我々はこの沼に溺れ、牛蛙どもに食われる運命にあると考えられる。
 ところで、蝦蟇(がまがえる)という蛙がいる。
 蝦蟇は鏡に映る己の姿におびえて脂汗をたらりたらりと流すといわれる。落語に出てくる大道商人蝦蟇の油売りの口上であるからもちろん作り話であろうけど、しかしこういうことは蝦蟇ばかりではない、普通の人間なら誰にでもよくあることだ。鏡に映るわが身に恍惚とするという人類も沢山いるにはいるがこれは今問題外として、自分の来し方を鏡に映せばやはり脂汗を流すことがある。
 自分に出会うということが何か人生に良き自分に出会うことだとすれば、それに出会った人はほんの一握りの幸運な人なのだ。その幸せに出会えずに足掻き続ける修羅の姿がこの作品の底に沈殿しているのではないか。
 川村毅はこの作品で一犯罪者を通してそれを問い掛ける。今の言葉で言えば日本人のアイデンティティを問い掛けている。戦後50年、各時代を曲がりなりにも生きてきたであろう一人の男の身体を貫いてきた時代の精神とはなんなのか。それは個々の日常を言うのではない。生活とはおそらく川村に言わせれば精神であり生きるための思想を言うのではないか。
 それにしてもこの戯曲は従来の彼の戯曲の系列とはかなり異質のもののように見えるだろう。事実不思議な質を持った物語である。一面寓話的質を持っているように思えてならず、それであえて私は物語というのである。政治的社会的にも捉えられるしまた、メタフィジカルな、精神分析学的側面もある。いずれにしても重い戯曲である。時代の重大な危機的状況にいらだちながら、政治に工作された現実に先行され巻き込まれていく現日本の姿と登場人物をWイメージさせつつ軽くユーモラスに展開させる。
 登場人物も生きているのか死んでいるのか曖昧であり、生者と死者の交わす会話もまた時代を跨ぐ。一人の人物が、多重人格のように時代を体現し、関わる相手によって変貌する。またある人物には死者が見えるが、別の人物には見えない。舞台上の約束は次々に破られる。最後に我々の常識では明らかに犯罪者であるはずのものが平然と存在している奇妙さを、牛蛙を、ざらざらとした舌触りで味わうのだ。かくして食用蛙・牛蛙の復讐は果たされる。
 私はこの作品に20世紀を告発するいわば「怒りを込めて振り返る」川村の、青年のような変わらぬ姿を見る。出演者・スタッフの気力は充実している。
(文学座通信12月号より)
 郊外の沼地。
 晩夏の数日間。
 ふたつのパブ、スナックは沼の縁に立てられていて、舞台にはいつもの店内と外の沼地が同時に見える。

 12月アトリエの会、川村 毅=作、藤原新平=演出『牛蛙』は、男が一人、集められた取材人を相手に怪しげな持論を滔々とまくしたてるシーンから始まります。ほぼ2年前に私たちがテレビで何度も目にした光景。当時の新聞記事によれば、
 ――「県警が怪しんでも、僕は何とも思わない。身の潔白は証明されるんだから」疑惑報道が始まった昨年7月以降、Y容疑者は連日連夜、自分が経営するパブに大勢の記者を集め、一回9千円の記者会見を開いた。その数は逮捕されるまで約2百回に上る。――とありました。
 埼玉県本庄市で、主犯のYがパブで働く女性たちに偽装結婚させ、その相手の男性に保険をかけて二人を殺害(ほかの一人は殺人未遂)し、10億を超える多額の保険金を詐取したという犯罪事件。Yは犯行を否認し続けましたが、共犯の女性の一人が自白して、すでに刑は確定しています。
 この事件をもとに今回の『牛蛙』が構想されたことは確かでしょう。しかしそれはまさにヒントにしか過ぎません。作者が新たに書き加えた、暗く淀んだ沼とそこに棲息する牛蛙という設定は卓抜で、この沼と牛蛙は作品のテーマに直結し、終始舞台に不気味な雰囲気を添えています。また、そこに登場する主人公の男、男の息子、正体不明の女、眼帯の男、三軒の店のママたち、そのいずれもが謎を秘めた得体の知れぬ、でもまことに魅力的な人物たちです。

 文学座アトリエの会ではここ数年、鈴江俊郎・鐘下辰男・宮沢章夫・平田オリザ・岩松 了・坂手洋二・鄭 義信・松田正隆など、そのほとんどが自ら劇団を主宰しつつ現代演劇をリードする劇作家のかたがたに作品を委嘱してきました。そうしたシリーズに今回新たに川村 毅さんが加わったのです。 

 川村 毅さんは、1959年東京生まれの横浜育ち。明治大学在学中の80年代に劇団第三エロチカを創立。以来座長として、作・演出・俳優を手掛け、85年『新宿八犬伝 第一巻』で岸田國士戯曲賞を受賞。近未来を舞台とする野外劇『ニッポン・ウォーズ』や『ボディー・ウォーズ』などで独自の境地を確立します。さらに『マクベスという名の男』は欧米各国でも上演され、絶賛を博しました。映画監督、小説家としても活躍、その多彩な才能は常に注目の的となっています。
 文学座初登場の川村毅作品。別役作品などですでに定評ある藤原新平演出。小林勝也・戸井田稔・城全能成・赤司まり子・征矢かおる・山本深紅・大野容子と実力派揃いの演技陣。12月6日の開幕をお楽しみに!

Copyright(C) 1997-2001 株式会社文学座
本ホームページの記載内容についての無断転載を禁じます。
このホームページの著作権は株式会社文学座に帰属します。