《三創立者記念公演》は、公演を終了いたしました。
ありがとうございました。


チラシ 1・2月公演
久保田万太郎
2・3月公演
岸田國士
3・4月公演
岩田豊雄(森本薫作品)

文学座創立65周年 三創立者記念公演
2002年文学座
1・2月公演
久保田万太郎
2・3月公演
岸田國士
3・4月公演
岩田豊雄(森本薫作品)
『大寺學校』
演出=戌井市郎
『顔』
演出=今村由香

『音の世界』
『女人渇仰』

演出=松本祐子
『ベンゲット道路』
演出=西川信廣

『退屈な時間』
演出=高瀬久男
久保田万太郎作品
2002年 1月 2月
22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
開演
時間
11:30 - - - - - -
- - - - - - - -
13:30 - - -
16:00 - - - - - - - - - - - - - -
18:30 - - - - - - -

岸田國士作品
2002年 2月 3月
20 21 22 23 24 25 26 27 28
開演
時間
11:30 - - - - -
- - - - - -
13:30 - - - -
16:30 - - - - - - - - - - -
18:30 - - - - - - - -

森本薫作品
2002年 3月 4月
19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31
開演
時間
11:30 - - - - - -
- - - - - - -
13:30 - - - - -
16:30 - - - - - - - - - - - - -
18:30 - - - - - - - - -

◎ 文学座創立65周年を迎えるにあたって
3人の創立者たち
  岩田 豊雄

明治26年(1893)横浜生まれ。大正2年に慶応大学文科予科を退学、11年に渡仏、パリに滞在して演劇を研究。昭和2年、第一書房刊「近代劇全集」フランス編・イタリア編の翻訳を引き受け、ジュール・ロマン『クノック』を翻訳出版、翌3年、その上演で初めて演出の仕事をした。8年「改造」に処女戯曲『東は東』を、翌年『朝日屋絹物店』を発表。一方、この頃「三田文学」「改造」「劇作」に演劇に関する評論を盛んに発表している。
昭和9年、戯曲では生活ができないので、獅子文六の筆名で小説『金色青春譜』を「新青年」に発表、ユーモア文学に新生面を開いた。
以後次々に長編小説の作家として広い人気を集める。さらに戦後も、23年「毎日新聞」に『てんやわんや』を連載してみごとカムバック。以来『自由学校』『娘と私』『青春怪談』『大番』『箱根山』などの長編を新聞、週刊誌に連載、清新な題材、卓抜な趣向、犀利な文明批評、軽妙な筆致と巧みな会話などによって一作ごとに高い世評を呼んだ。
演出家としては昭和2年に岸田國士に誘われて新劇協会に入り、関口次郎高田 保横光利一久保田万太郎を知ったが、翌年脱退、岸田、関口と新劇研究所を創設。
一年で解散。12年に岸田、久保田とともに文学座を起こし、爾来同座幹事として尽力した。
演劇関係の著書には新潮社刊「岩田豊雄創作翻訳戯曲集」と「岩田豊雄演劇評論集」がある。
昭和44年、文化勲章受賞。同12月歿、享年76歳。

文学座の全身は友田恭助田村秋子の主宰する「築地座」でした。
文学座創立者の三人、岩田豊雄・岸田國士・久保田万太郎は顧問格で芸術上の指導者でもありました。
その築地座が昭和11年に解散、友田・田村夫妻の才能を惜しんだ岩田豊雄は二人を中心とする新劇団の設立を目論みます。
「私は、芸術派の劇団を、もう一度やりたくなった。しかし、岸田と私だけで始めれば、築地座の轍を再び繰り返す惧れがあり、彼の理想家ヒステリーを封じるためにも、もう一人の人物の参加が必要ではないかと思った。その人物は、久保田万太郎以外になかった。(中略)ある日、私は友田にその構想を語った。彼は非常な乗気を示した。私は、岸田は私が説くから、久保田万太郎は君が説けといった。そして、私たちは行動を始めたが、岸田は意外なほど話に乗ってきた。(中略)とにかく話はトントン拍子に進み、ある夕、岸田、久保田、私の三人で、築地の八尾善でこの計画の最初の顔合わせをしたが、この時最も愉快そうだったのは、久保田万太郎だった。−岩田豊雄“新劇と私”より」
こうして、昭和12年(1937)9月6日、文学座は結成されました。
しかし、この日の三田小山町の久保田邸における主要メンバーの相談会は、はからずも出征する友田恭助の壮行会ともなり、一ヵ月後、友田は上海で戦死します。
そのため、田村秋子が出演を固辞し、11月に予定されていた有楽座での旗挙げ公演は中止という、まさに前途多難の旅立ちでした。
でも、翌13年1月、演技部の自主的な勉強会をもって文学座は第一歩を踏み出し、続く3月には『みごとな女』『我が家の平和』『クノック』の三本立で第1回公演が実現します。
このときの公演プログラムには三創立者連名による「文学座創立について」と題する1文が掲載されました。いわゆる創立宣言です。
「われわれは、姑息と衒学と政治主義を排し、真の意味における“精神の娯楽”を舞台を通じて知識大衆に提供したいと思います。従来の因循な“芝居”的雰囲気といたずらに急進的な“新劇”的正硬のいずれをも脱して、現代人の生活感情に最も密接な演劇の魅力を創造しようというのであります。われわれは外に向っては、まず今まで劇場に縁遠かった現代の教養ある“大人”に呼びかけたいのであります。同時に、うちにおいては、名実とも現代俳優たり得る人材の出現に力を尽くしたいのであります。」
いずれにせよ、岩田豊雄の発案と根回しによって文学座が誕生したことは確かです。
そもそも「文学座」と命名したのも、LとTの字を組合わせた座紋を制定したのも岩田豊雄でした。
また、座付作家として誘い入れた森本 薫とともに、文学座独自のウェルメイド・プレイ上演の道を切り拓きました。この路線は今も続いています。
最後に岩田豊雄への賛辞を一つご紹介しましょう。岩田豊雄を師と仰いで敬愛した北見治一の著書「回想の文学座」から。
「文学座の役者に対しては、いわば“猫っ可愛がり”の久保田と逆に、殊更厳しかったように思う。それも、久保田とは裏返しの愛情の深さだったろう。彼は、やはり、根っからの芝居好きだった。そして僕らが、日常にまぎれておっことしてしまいがちな、一番大事なものを常に思い出させてくれた」
岸田國士、久保田万太郎亡き後も、その晩年に至るまでに常に文学座を愛し続けて岩田豊雄。
やはり、文学座の第一の恩人であると言えるでしょう。


 



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