| 2002.04.09更新 |
《三創立者記念公演》は、公演を終了いたしました。
ありがとうございました。
| 文学座創立65周年 三創立者記念公演 | ||||
| チラシ | 公演日程 | 1・2月公演 久保田万太郎 |
2・3月公演 岸田國士 |
3・4月公演 岩田豊雄(森本薫作品) |
2002年文学座3・4月公演
岩田豊雄 (森本薫作品)
| (1893〜1969) 明治26年、横浜生まれ。 慶應義塾大学中退。 獅子文六の筆名でユーモアと風刺の利いた風俗小説を多数発表。 フランス近代劇の紹介に多大の功績がある。 昭和44年、文化勲章受賞。 同年12月13日死去。享年76歳。 岩田豊雄には、文学座創立の発案者、「文学座」の命名者、 あるいは「文学座アトリエの会」創設者など、 企画者としての功績が光ります。 森本薫に文学座への入座をすすめ、 座付作家としての仕事の道筋を開いたのも岩田豊雄です。 今回の記念公演では、その功績に因んで森本薫の作品を上演します。 |
(1912〜1946) 明治45年、大阪生まれ。 昭和13年、文学座第1回公演(試演と称する)に「みごとな女」が上演される。 15年、岩田豊雄のすすめにより文学座に入座。 20年、「女の一生」5幕を書き下ろし、文学座上演。 昭和21年10月6日死去。享年34歳。 |
『退屈な時間』
演出=高瀬久男
『ベンゲット道路』
演出=西川信廣
:スタッフ:
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| 2002年 | 月 | 3月 | 4月 | ||||||||||||||
| 日 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | 1 | 2 | 3 | |
| 曜 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 | 月 | 火 | 水 | |
| 開演 時間 |
11:30 | - | - | - | - | ○ | - | - | 休 演 |
- | - | - | ○ | - | - | - | - |
| 13:30 | - | ○ | ○ | ○ | - | ○ | - | ○ | ○ | ○ | - | ○ | - | ○ | ○ | ||
| 16:30 | - | - | - | - | ○ | - | - | - | - | - | ○ | - | - | - | - | ||
| 18:30 | ○ | ○ | - | - | - | - | ○ | - | ○ | - | - | - | ○ | ○ | - | ||
前売・予約開始●2002年2月15日(金)
入場料●一般5,500円(全席指定・税込)
学生3,800円(取扱いは文学座のみ)
前売・予約●文学座チケット専用0120−481034(シバイヲミヨー)
チケットぴあ 03−5237−9988・9999
お問合せ●文学座 03−3351−7265(10時〜18時/日曜・祝祭日を除く)
| 朽木 | …… | 加納朋之 | |
| 二瓶 | …… | 大滝 寛 | |
| 神近 | …… | 横田英司 | |
| つな子 | …… | 山崎美貴 | |
| みのり | …… | 郡山冬果 | |
| 香那枝 | …… | 山本深紅 | |
| 女中 | …… | 八木昌子 | |
| 第一の男 | …… | 三木敏彦 | |
| 第二の男 | …… | 林田一高 | |
| 第三の男 | …… | 石橋徹郎 | |
| 第四の男 | …… | 助川嘉隆 | |
| 第五の男 | …… | 古川悦史 | |
| 第六の男 | …… | 清水明彦 | |
| 第七の男 | …… | 塾 一久 | |
| 第八の男 | …… | 村治 学 | |
| 第九の男 | …… | 岸槌隆至 | |
| 第十の男 | …… | 桑島貴洋 | |
| 第十一の男 | …… | 後藤 晋 | |
| 第十二の男 | …… | 佐川和正 | |
| 第十三の男 | …… | 望月秀人 | |
| 第十四の男 | …… | 本嶋和幸 | |
森本薫と文学座
森 秀男(演劇評論家)
森本薫は、1912年に大阪市で生まれた。三高在学中の32年、学内文芸誌に処女戯曲『ダムにて』を発表し、京都帝大英文科に進んだ翌年の34年、同人誌「部屋」に『湯の宿にて』、『一家風』、『寂しい人』の三作を続けて載せている。その『一家風』が岸田國士に師事する若い劇作家たちが拠っていた雑誌『劇作』の同人だった小山祐士と田中千禾夫の目にとまり、同誌への執筆を依頼されて同じ年に書いたのが『みごとな女』である。これが文学座の創立者の一人になる岩田豊雄に賞賛され、『劇作』同人に迎えられた。この年に『わが家』を『新思潮』に発表している。
翌35年には、『かどで』を「新思潮」に載せた後、『わが家』が築地座によって岩田豊雄演出で上演されるという幸運に恵まれた。続いてその年に『華々しき一族』、36年には『かくて新年は』を「劇作」に、『衣裳』を「文芸」に発表し、稀有な早熟の天分を存分に開花させてゆく。
37年に「文芸」に載せた『退屈な時間』までのいわゆる前期戯曲は、すべて京都帝大時代の20代前半に書かれたものだが、その多くが男女の恋愛心理の華麗なアラベスクを繊細なせりふで描き出していることに驚嘆させられる。昭和初年の思想弾圧の後に青春を迎えた森本薫の戯曲には、社会との関わりがまったくといっていいほど切り捨てられている。それは左翼演劇とは無縁だった芸術派の資質にもよるが、満州事変から日中戦争へ拡大してゆく時代の中では、そういう場所にしか自由な劇表現を托せなかったのだろう。
森本薫は38年に結婚し、まもなく上京したが、前年に発足した文学座の「試演」と名づけた第一回公演に『みごとな女』が取り上げられた。そして40年の暮れに、岩田豊雄の勧めで文学座に入る。新協劇団と新築地劇団が強制解散させられ、岸田國士が文学座を退いて大政翼賛会の文化部長に就任した年だった。
座付き作者としての森本薫の仕事は、41年の庄司総一原作『陳夫人』を田中澄江と共同脚色したのを皮切りに、42年は岩下俊作原作『富島松五郎伝』、43年の丹波文雄原作『勤皇届出』と脚色物がつづいた。44年の『怒涛』は、『退屈な時間』から7年ぶりのオリジナル戯曲で、伝染病研究に打ち込んだ北里柴三郎の伝記劇だが、半月の上演予定が一ヶ月に延びるほどの大入りを記録した。
岩田豊雄は、森本薫についてこう書いている。『私は彼を文学座に関係させたくせに、あまり深入りさせたくない気持ちもあった。作家としての彼の優秀な才能を良く知っているだけに、劇団の実際的要求で、折れたり曲がったりするのを惧れた。“怒涛”という作品なぞに、その危惧を感じ、一言述べると、『いえ、ぼくは、新劇の岡本綺堂になりたいんですよ』と笑って応えた。それは負け惜しみのようであり、また、本音のようでもあった。』
森本薫の最後の戯曲となった『女の一生』は、45年4月の東京で空襲の合間を縫うように上演された。日本文学報告会が大東亜共同宣言を推進するための委嘱作だったが、ヒロインの布引けいが明治の少女時代から、大正、昭和の三代を生き抜く足あとをたどるもので、プロローグとエピローグは、太平洋戦争に突入してすぐの42年1月に設定されていた。京都に疎開した森本薫は肺結核が再発し、病床で敗戦を迎えたが、46年に『女の一生』のプロローグとエピローグを戦後の時点に書き直し、34歳で夭折した。この改訂は、『女の一生』を単行本として出版するためで、作者は文学座による再演を望んでいたわけではない。しかし、改訂版を遺してくれたことで、『女の一生』はすぐさま追悼公演の演目に選ばれ、その後も補訂を加えながら、戦後の文学座の最大の財産演目となってゆく。杉村春子は布引けいを947回演じたが、96年からは平 淑恵に受け継がれた。
49年の『かくて新年は』の初演につづいて、50年には前期戯曲の代表作に挙げられる『華々しき一族』がようやく舞台に乗せられた。ヒロインの諏訪は杉村春子の持ち役のひとつになったが、96年の7度目の上演では、彼女の希望でアトリエの空間が選ばれた。そして、その年の暮れの横浜での打ち上げの舞台が、大女優の生涯の千秋楽となったのも、奇しき縁といえるだろう。
『華々しき一族』と肩を並べる秀作の『退屈な時間』は、52年に初演されたが、その後の森本作品の上演は、『富島松五郎伝』と『衣裳』が二度のほか、『かどで』、『薔薇』、『怒涛』などが数えられる。
今度の記念公演では、『退屈な時間』が50年ぶりの上演になる。3人ずつの男女の愛憎が複雑に絡み合う内心の揺曳を、どう表現するかが楽しみだ。森本薫は36年の『薔薇』を第一作に多くのラジオ・ドラマを書いたが、『ベンゲット道路』は42年6月にAKから放送された。明治後期、フィリピンの首都マニラから避暑地バギオへの観光道路を作るため、山岳地帯の難工事に挑んだ日本人労働者1500人が、その半数近くを犠牲にして完成した苦闘の物語である。この記録劇の放送された年の一月に、日本軍がマニラを占領したことは見落とせないが、国策劇にこめられた作者の思いが舞台からどう伝わってくるのだろうか。
3月は、劇団創立の事実上の中心人物である岩田豊雄が入座を勧め、文学座初の座付き作家となった森本薫の2作品が登場します。次に、その岩田豊雄と岸田國士が森本薫について触れた一文(抜粋)を引用し、作者紹介にかえたいと思います。
森本薫について―――――――――岩田豊雄
彼が非常に怜悧なことは、確かであった。また、彼が非常に繊細な神経の持ち主であることも非常に傷みやすい心を抱いていることも、確かであった。しかし、彼は人をあざむく人物でも、人に傲る人物でも、調子に乗る人物でも絶対になかった。むしろ、彼はそういうシッポを人に見せぬほど、慎重で怜悧な人物だった。怜悧なところも、繊細なところも、彼は人に見せるのを嫌ってるように見えた。それは、畢竟、彼の趣味であり、また自衛でもあったろう。しかし、彼はわたしの知る若い人のうちの誰よりも、常識家であることは事実だった。きわめて詩人的な稟質と20歳の老爺のごとき常識と、この二つが彼の初期の作品にも、綯い交ぜになっていた。常識もまた、日本では軽蔑されるが、わたしは彼の常識が大きく育って、いわゆる、心理派の枠なぞを脱するのを期待していた。
森本薫君について――――――――――岸田國士
舞台的リアリズムの追求は、大正初年に出た作家群、久保田、菊池、山本、久米というような人達によって、まず最初ののろしがあげられ、演劇におけるリアリズムの最初の根がそこに張られたとすれば、それがだんだん育って今度は昭和10年前後、つまり『劇作』の運動が実を結んだ時代に、ようやく近代的な意味でのリアリズムが真の完成された形をとって来た。そういう意味で『劇作』の同人諸君が劇文学の上に築いた地歩は決して見逃せないのですが、その中で特に近代的な感覚を盛ったリアリズムと言う点では森本君がいちばん目立った存在です。西洋では、舞台のリアリズムといえば一つの文学上の流派と結びついて発達したものと見られていますが、日本では新しいリアリズムを打ち建てることが演劇の近代化の一つであるという特別な意味を持っていると思います。そういう点からいって、大正初期の作家群と昭和10年前後の作家群とを較べて見ると、面白い現象がすぐに眼につくのです。つまり前者のリアリズムはまだ近代的リアリズムとは言えないものがあるが、後者のそれに至ってはじめてそれが言えると思うわけです。換言すれば、大正初期の戯曲は技術的に古いというよりも、むしろ文化的に近代味が稀薄であったということ。そういう意味で『劇作』の作家群の中で、森本君のリアリズムが、最も近代的な感覚の領域に足を踏み込んでいます。もう一つの彼の新しさは、彼の作品の中に、知性を織り込んだ一種のダンディズムがあることだと思います。これが他の多くの作家よりも何か新しいものを感じさせる大きな理由でしょう。日本でも昔からダンディズムなるものはあったが、近代的なダンディズムは森本君に至るまでちょっと発見できないくらいです。これはおそらく戯曲とは限らず小説をひっくるめて言えることです。ともかく森本君はフランスで言うアンファン・テリブル(恐るべき子供)の素質を持っていたのです。もし森本君がほかの方面へ行ったとしても、必ずアンファン・テリブルの特色を発揮した一人物だったことでしょう。
『退屈な時間』は1937年1月、まだ京都帝大の学生であった森本 薫が雑誌『文芸』に発表したもので、『華々しき一族』『かくて新年は』などとともに、早熟な作者の天賦の才がいかんなく発揮されています。森本の師でもあった山本修二はこの作品に触れて
――つまり『退屈な時間』というのはうわべだけの退屈さで、彼らの内心のかすかな動揺が、周囲へ波動を及ぼしていくのだが、それがもつれたりほぐれたり、油断もすきもない時間である。はじめからかなり意識的で、かなりはっきりものを言う神近と香那枝の二人は、深水の表面に浮かぶあわのような存在で、ほんとうのドラマは朽木と二瓶とのぎりぎり一ぱいの自己発見にかかっている――
と述べています。
文学座での初演は戦後の52年9月、大阪の毎日会館で。演出は戌井市郎。朽木―中村伸郎、二瓶―芥川比呂志、神近―北村和夫、つな子―福田妙子、みのり―加藤治子、香那枝―杉村春子、女中―丹阿弥谷津子という配役でした。
ほぼ半世紀ぶりの再演。演出の高瀬久男始め、若手演技陣の挑戦がまことに楽しみです。
史実に基づいて書かれ、1942年6月4日にNHKから放送されたラジオドラマが『ベンゲット道路』です。演出は青山杉作。中村伸郎、宮口誠二、下條正巳、小杉義男などが出演しています。
舞台での上演はおそらく今回が初めて。西川信廣の演出がこのラジオドラマの名作をどのように舞台化して見せるのか、大いに期待して待ちたいと思います。
獅子文六のペンネームで広く知られる岩田豊雄は、文学座創立の発案者、そして「文学座」の命名者、あるいはまた「文学座アトリエの会」創設者、森本薫の発掘者など多分に企画者としての功績が光ります。その岩田豊雄に因んで、三創立者記念公演の掉尾を森本作品で飾ります。
『退屈な時間』
自分の本心を掴もうと手探りする三組の男女。
それぞれの愛と思惑が二重三重に絡み合う心理劇の傑作です。
昭和12年1月「文芸」に発表。
昭和27年9月、戌井市郎演出にて文学座により初演。
『ベンゲット道路』
明治後期のフィリピン。
多大な犠牲を払って、峻険な山岳地帯に道路を貫通させた日本人たちの物語。
ラジオドラマとして、昭和17年6月、現在のNHKより放送されました。
今回、初の舞台化です。
◎ 文学座創立65周年を迎えるにあたって
3人の創立者たち
岩田 豊雄
明治26年(1893)横浜生まれ。大正2年に慶応大学文科予科を退学、11年に渡仏、パリに滞在して演劇を研究。昭和2年、第一書房刊「近代劇全集」フランス編・イタリア編の翻訳を引き受け、ジュール・ロマン『クノック』を翻訳出版、翌3年、その上演で初めて演出の仕事をした。8年「改造」に処女戯曲『東は東』を、翌年『朝日屋絹物店』を発表。一方、この頃「三田文学」「改造」「劇作」に演劇に関する評論を盛んに発表している。
昭和9年、戯曲では生活ができないので、獅子文六の筆名で小説『金色青春譜』を「新青年」に発表、ユーモア文学に新生面を開いた。
以後次々に長編小説の作家として広い人気を集める。さらに戦後も、23年「毎日新聞」に『てんやわんや』を連載してみごとカムバック。以来『自由学校』『娘と私』『青春怪談』『大番』『箱根山』などの長編を新聞、週刊誌に連載、清新な題材、卓抜な趣向、犀利な文明批評、軽妙な筆致と巧みな会話などによって一作ごとに高い世評を呼んだ。
演出家としては昭和2年に岸田國士に誘われて新劇協会に入り、関口次郎、高田 保、横光利一、久保田万太郎を知ったが、翌年脱退、岸田、関口と新劇研究所を創設。
一年で解散。12年に岸田、久保田とともに文学座を起こし、爾来同座幹事として尽力した。
演劇関係の著書には新潮社刊「岩田豊雄創作翻訳戯曲集」と「岩田豊雄演劇評論集」がある。
昭和44年、文化勲章受賞。同12月歿、享年76歳。
文学座の全身は友田恭助と田村秋子の主宰する「築地座」でした。
文学座創立者の三人、岩田豊雄・岸田國士・久保田万太郎は顧問格で芸術上の指導者でもありました。
その築地座が昭和11年に解散、友田・田村夫妻の才能を惜しんだ岩田豊雄は二人を中心とする新劇団の設立を目論みます。
「私は、芸術派の劇団を、もう一度やりたくなった。しかし、岸田と私だけで始めれば、築地座の轍を再び繰り返す惧れがあり、彼の理想家ヒステリーを封じるためにも、もう一人の人物の参加が必要ではないかと思った。その人物は、久保田万太郎以外になかった。(中略)ある日、私は友田にその構想を語った。彼は非常な乗気を示した。私は、岸田は私が説くから、久保田万太郎は君が説けといった。そして、私たちは行動を始めたが、岸田は意外なほど話に乗ってきた。(中略)とにかく話はトントン拍子に進み、ある夕、岸田、久保田、私の三人で、築地の八尾善でこの計画の最初の顔合わせをしたが、この時最も愉快そうだったのは、久保田万太郎だった。−岩田豊雄“新劇と私”より」
こうして、昭和12年(1937)9月6日、文学座は結成されました。
しかし、この日の三田小山町の久保田邸における主要メンバーの相談会は、はからずも出征する友田恭助の壮行会ともなり、一ヵ月後、友田は上海で戦死します。
そのため、田村秋子が出演を固辞し、11月に予定されていた有楽座での旗挙げ公演は中止という、まさに前途多難の旅立ちでした。
でも、翌13年1月、演技部の自主的な勉強会をもって文学座は第一歩を踏み出し、続く3月には『みごとな女』『我が家の平和』『クノック』の三本立で第1回公演が実現します。
このときの公演プログラムには三創立者連名による「文学座創立について」と題する1文が掲載されました。いわゆる創立宣言です。
「われわれは、姑息と衒学と政治主義を排し、真の意味における“精神の娯楽”を舞台を通じて知識大衆に提供したいと思います。従来の因循な“芝居”的雰囲気といたずらに急進的な“新劇”的正硬のいずれをも脱して、現代人の生活感情に最も密接な演劇の魅力を創造しようというのであります。われわれは外に向っては、まず今まで劇場に縁遠かった現代の教養ある“大人”に呼びかけたいのであります。同時に、うちにおいては、名実とも現代俳優たり得る人材の出現に力を尽くしたいのであります。」
いずれにせよ、岩田豊雄の発案と根回しによって文学座が誕生したことは確かです。
そもそも「文学座」と命名したのも、LとTの字を組合わせた座紋を制定したのも岩田豊雄でした。
また、座付作家として誘い入れた森本 薫とともに、文学座独自のウェルメイド・プレイ上演の道を切り拓きました。この路線は今も続いています。
最後に岩田豊雄への賛辞を一つご紹介しましょう。岩田豊雄を師と仰いで敬愛した北見治一の著書「回想の文学座」から。
「文学座の役者に対しては、いわば“猫っ可愛がり”の久保田と逆に、殊更厳しかったように思う。それも、久保田とは裏返しの愛情の深さだったろう。彼は、やはり、根っからの芝居好きだった。そして僕らが、日常にまぎれておっことしてしまいがちな、一番大事なものを常に思い出させてくれた」
岸田國士、久保田万太郎亡き後も、その晩年に至るまでに常に文学座を愛し続けて岩田豊雄。
やはり、文学座の第一の恩人であると言えるでしょう。
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