| 2002.10.10更新 |
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2002年10月18日(金)〜30日(水) 信濃町・文学座アトリエ (ここをクリックすると地図が出ます) |
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| :出演: 関 輝雄・清水 明彦・高橋 克明・林田 一高 富沢 亜古・目黒 未奈・山本 深紅・鬼頭 典子・添田 園子
【 公演情報 】
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| 【 配 役 】 | ||
| ルイス・コテダ・コージ(司祭) | …… | 関 輝雄 |
| ナオコ(コージの妹・テロリスト) | …… | |
| サエキ(離れに住む義手の男) | …… | 高橋 克明 |
| …… | 林田 一高 | |
| パブロ・ウラタ・ヤスオ(分校の教師) | …… | 清水 明彦 |
| カタリナ・ウラタ・スエ(ヤスオの妻) | …… | 富沢 亜古 |
| ベロニカ・ヤマダ・ヨシノ(海女) | …… | 添田 園子 |
| マリヤ・ハツダ・ミサ(海女) | …… | 鬼頭 典子 |
| アンナ・マツオ・ヤエ(海女) | …… | 目黒 未奈 |
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| 【 物 語 】 |
| 信仰の島コエバル。 丘の上に建つ小さな教会の司祭ルイス・コテダ・コージが島民の心の支えとなっている。 島と本土とを結ぶ橋が完成した時から、島は過疎化が進んで老人と子供ばかりが残され、 漁を捨てた男たちのかわりに生活を支えるのは海女たちだった。 秋。司祭は台風で壊れた教会の再建に従事していた。 そんな時、島の青年が司祭のもとを訪れ、 消息不明になっていた司祭の妹ナオコが、東京で皇太子暗殺の計画にかかわり、 警察の追跡を逃れ、生まれ故郷のこのコエバル島に潜伏しているのではないか、と告げる。 妹をかくまうべきか否か、司祭は重大な選択を迫られて・・・・・・。 |
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| 【どんな舞台?】 |
| 放蕩息子の帰宅 松田正隆 ルカ伝15章にイエスの語ったたとえ話がある。 父の家に放蕩の限りを尽くした息子が帰って来る。父は息子を抱いて次のように言って祝福した。「急いで、いちばん良い着物を出して、この子に着せなさい。手には指輪をはめ、足にははき物をはかせなさい。食事をして喜び合おう。この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」 すると、その放蕩息子の兄は、父に向かって怒って言うのである。 「わたしは長年お父さんに仕え、一度も言いつけにそむいたことがなかったのに、あなたはわたしが友人と祝宴を開くために子やぎ一頭もくださいませんでした。それなのに弟が遊女どもと一緒にあなたの財産を食いつぶして帰って来ると、ふとらせた牛をほふります」 私は、どちらかといえばこの兄の怒り方がもっともなことだと思う。父は何故、放蕩息子を許し、それどころか祝福までするのだろう。息子の罪の認識による悔い改め故に、息子の放蕩を許す父の寛容さと解釈できなくもないが、何となくそれだけでは納得できないのだった。 放蕩息子とはイエス自身のことではないだろうか。イエスにとって父の財産とは神聖さや聖性、奇跡を起こす力、つまり神の子である自分にまとわりつく神の権威のことであり、それを流浪の果てにつかい尽くして、イエスは何でもない一個の人間として死んだのではないだろうか。イエスの放浪は、神の財産(神聖さに基づく権力)を放蕩する旅であったように思えてならない。 病いで苦しむ人々や死んだラザロのためになされた奇跡の数々も、自分自身のためには起こし得ず、荒野で悪魔に誘惑されても神の力を行使することを拒んだ。神の子であるにもかかわらず、弟子の無理解を嘆き血の汗を流して死をおそれ、人々の罵声を浴びて十字架にかけられたのであった。彼は神の財産を放蕩してしまっていたからだ。それは神が絶対とされた世界への緩慢な自爆テロのようでもある。イエスは身を持って神の死を世の中に知らしめたのであった。それ故、私にはイエス復活の奇跡は、聖書の蛇足に思えてならない。宗教の中のイエス・キリストと、イエス自身は違う人物なのだろうと思う。 神は息子が神の力をつかい果たして死んだことを、祝福したのだ。何故なら、神を必要とせずとも、日々の生活が営まれてゆく世界が、いつか必ず来ることを知っていたからだ。 現代という時代には、神などいないと思っていたが、今だに人類はそれぞれの神を祈り、それぞれにとっての都合の良い正義をふりかざし戦争ばかりしているので、神はまだ確実に存在しているのだろう。私も、無神論者を気取ってはいるものの、いつの間にか知らず知らずのうちに、何らかのものを無前提に、無根拠に、あの放蕩息子の兄のように信じてしまっているのではないかと、不安になる。当然のことながら、なかなかイエスのようにはなれないのだ。しかし、この社会にはびこる物神化という奇術がなくならない限り、支配と従属の世界秩序は解消されないのだろう。 ボスの絵にも「放蕩息子の帰宅」という作品がある。こちらの方は、何だか煩悩のかたまりという感じの息子の姿である。父の家への帰宅途中なのだけど、放蕩を尽くした世俗への未練なのか、後ろを振り返っている。様々な荷物を背負い、息子といえども白髪で年老いて疲れた表情をしている。それでいて、見ようによっては何らかの確信にみちているようにも見えなくはない。いずれにせよ、どっちつかずなのだ。 これには強く共感し、この『沈黙と光』という戯曲を書くモチーフの一つとなった。 橋を渡って 高瀬久男 今年の4月のこと、私は松田さんと共に、長崎の北西に位置する島、生月島を訪れた。松田さんは今回の芝居のモチーフとなるであろうその島の取材に、私は取材の付き添いと称して観光に。そもそも私がこの旅行を思い立ったのは、99年の『花のかたち』以来2度目となる松田さんとの仕事を前に、松田さんの描く劇世界の根底をなしていると思われる、その生まれ育った風土を一度たっぷりと味わってみようと思ったからである。しかし、そんな観光気分が災いしたのか、快晴のはずが黄砂のせいでどんよりと曇るあいにくの天気の中、とにかく、平戸大橋を渡り、生月大橋を渡り、そして、ついに生月島へ。そこは、400年にもわたる長い潜伏時代の信仰形態をそのまま継承したカクレキリシタンといわれる人達が、今もその風習を守り続けている島である。私達は、そこで、島の博物館の学芸員の方の案内のもと、島の人の話を聞き、島を巡り、殉教地を尋ね、充実した一日を過ごしたのでした。 あれから5ヶ月が過ぎ、松田さんは本を書き上げ、そして私は、その本を読み、髪を掻き上げた。 私が松田作品に興味を抱いたのは、今から6年前、岸田戯曲賞受賞作の『海と日傘』を読んだのがきっかけでした。それまで名前すら知らなかった私は、その作劇の見事さに驚き、いつかぜひ一緒に仕事をしたいものと、研修科で上演した『坂の上の家』を、無理を言って京都から見に来ていただき、ようやく出会いに漕ぎつけ、そして、99年の『花のかたち』をお願いすることとなったのでした。松田さんの作品は、多くの人が評価しておられるように、長崎弁を使った日常的な会話の中から、見事に演劇的な構造を立ち上がらせ、どこかせつなく悲しく、そして胸を揺さぶってやまないドラマを作り出してきました。しかし、この2、3年、想像するにとどまっていた、日常会話の裏に隠されていたものを外へ出したいという欲求が生まれ、松田さんは新しい作劇に挑戦しはじめています。まさに今、それが形になろうとしているのかもしれません。 たとえば、一つの言葉を語るにしろ、ある行動を選択するにしろ、語って行動したことは社会のルールにのっかっているとしても、その動機には、その人特有の思いがあり、その思いの裏に歴史があり、けっして表面に現れたものでは語りきれないドロドロと澱んだものがあるものです。そしてそれらは捨て去られ続けるもの、社会においては排除され続けるものということでしょう。それらを表に引き出す作業は、論理的な構成では扱いきれないものとなるのでしょう。これは私にとっても困った作業というほかありません。しかし、それ故、私にとっては新しい表現の開拓となるのかもしれません。演劇は社会を映す鏡といいます。演劇という鏡に映った社会は、またはある個人は、けっしてそのまま映しだされることなく、内包したものを含めて映し出されることとなるでしょう。虚構ゆえに映し出される真実はけっしてきれいなものだけではないとしても。 『沈黙と光』。これはすべて架空の話。松田正隆によって思い描かれた負の世界。橋の向こうの鏡の中の物語。ある出来事を見る時に、起こった出来事そのものではなく、そのことが起こったことによって、起こり得なかったことをいとおしむ視線で描かれた物語、あるいは神話。 アリストテレスの「詩学」の中に、こんな言葉があるようです。 「歴史家は実際にあったことを描き、詩人はあり得ることを描く。詩は普遍性を描き、歴史は個性を描く」 では劇作家は?そして演劇は?勿論、詩人や詩と同じ範疇に入るのでしょうが、あえてつけ加えるならば、劇作家はあり得なかったことまで描き、演劇は品性を描く。そうありたいと願いつつ。 |
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| ◇劇作家としての松田の資質は、郷土長崎の言葉を使い、淡々としたセリフの送り返しの中に、秘められた官能と死の匂いをしみこませた作風にあるが、今回は小市民的悪意が、一見平穏な日常空間の中に暴力的に割り込んでくる。・・・・・・家族や共同体が崩壊した現在も、家族関係を作らざるをえない悲劇。生死の不安定性、暴力を見据える作家の思いが伝わってくる。−河野孝氏「日本経済新聞」 ◇設定は長崎県周辺の離島であり、そこに勤務する中学教師の夫とその妻、その周囲の人々を巡る恋愛と結婚と死の物語である。松田の得意とする設定であり、いつものように何気ない日常の会話の中に人間の心の綾と重い課題とを込めている。九州方言も自然だし、文学座の若手俳優が名演技を見せた。−結城雅秀氏「テアトロ」 99年の11月アトリエの会で大好評を博し、忘れがたい強烈な印象を残した『花のかたち』に続いて、同じ作・演出コンビによる新作『沈黙と光』が10月18日からのアトリエの舞台に再登場します。94年『坂の上の家』で第1回OMS戯曲大賞受賞、96年『海と日傘』で第40回岸田國士戯曲賞と京都市芸術新人賞受賞、98年には『夏の砂の上』で第50回読売文学賞を受賞して、今や現代演劇の旗手と目される松田正隆さん。昨年上演された『モンテ・クリスト伯』の演出で芸術選奨・文部科学大臣新人賞を受賞したばかりの高瀬久男。ともに上昇気流に乗る絶妙の作・演出コンビが当然ながら熱い期待と注目を集めています。 登場人物のすべてがクリスチャン・ネームを持つ信仰の島。古い教会を守り、島の精神的支柱でもある司祭のもとに、テロリストの妹が逃亡の果てに現れて・・・・・・。伝説や神話に彩られた作者独自の静謐な、しかしドラマチックな世界が展開することでしょう。お楽しみに。 |
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| 作者・松田正隆 1962年長崎県生まれ。立命館大学文学部卒業。大学時代より現在にいたるまで京都在住。京都にて1990年、時空劇場を結成。1997年の解散まで全作品の作・演出を手がける。1992年『紙屋悦子の青春』で郷愁、家族をテーマにした作品を書き、関西で九州弁という手法が話題を呼ぶ。1993年『坂の上の家』で第1回OMS戯曲賞大賞を受賞。1994年『海と日傘』で第40回岸田戯曲賞、京都市芸術新人賞を受賞。日常会話から垣間見られる市井の人々の生活の切なさ、共同体の崩壊などを描き、現在最も注目を浴びている作家である。 演出・高瀬久男 1957年山形県生まれ。1980年玉川大学芸術学科演劇専攻卒業後、文学座付属演劇研究所入所。1985年に座員となり現在にいたる。2001年『モンテクリスト伯』『スカイ・ライト』で芸術選奨文部科学大臣新人賞。今夏は文学座ファミリーシアター『アラビアンナイト』の演出をするなど、様々な作品での繊細かつ大胆な演出は劇団内外問わず高い評価を得ている。 数々の演劇賞を受賞し、現代日本演劇の旗手と目される松田正隆と、2001年芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した高瀬久男。 1999年の11月アトリエの会『花のかたち』以来となるコンビが、アトリエに再登場。ご期待下さい。 |
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