| 2002.06.20更新 |
Roberto Zucco |
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2002年6月28日(金)〜7月10日(水) 信濃町・文学座アトリエ (ここをクリックすると地図が出ます) |
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| :出演: 飯沼 慧・林 秀樹・田村 勝彦・石川 武 佐藤 淳・林田 一高・石橋 徹郎・鍛治 直人 藤堂 陽子・赤司 まり子・富沢 亜古・塩田 朋子 高橋 礼恵・太刀川 亞希・佐古 真弓
【 公演情報 】
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| 【 配 役 】 | ||
| ロベルト・ズッコ | …… | 佐藤 淳 |
| ズッコの母/女主人 | …… | 赤司 まり子 |
| 少女 | …… | 佐古 真弓 |
| 少女の姉/女2 | …… | 高橋 礼恵 |
| 少女の兄/若者1/男2/声 | …… | 鍛治 直人 |
| 少女の父/男4/声 | …… | 田村 勝彦 |
| 少女の母/女1 | …… | 藤堂 陽子 |
| 年老いた紳士/男3/声 | …… | 飯沼 慧 |
| 上品な婦人 | …… | 塩田 朋子 |
| 憂鬱な刑事/大男/男1/短気なひも/声 | …… | 石川 武 |
| 看守1/警部/公園の警官/警官2/声 | …… | 石橋 徹郎 |
| 看守2/若者2/男5/警官1/声 | …… | 林田 一高 |
| 警察署長/公園の警官/声 | …… | 林 秀樹 |
| 取り乱した娼婦/子供 | …… | 太刀川 亞希 |
| 娼婦/女3 | …… | 富沢 亜古 |
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| 【 物 語 】 |
| これは一人の脱獄犯、殺人犯の物語であるとともに、 抜け殻でしかない家族の物語、 あるいは他処へと向かう夢の物語でもある。 ―ただしそれが「物語」と呼べるようなものであるならば。 というのも、ここでは登場人物たちはそれぞれに、 言葉をつむぎ出すことによって「物語」を散乱させつつ、 物語ごと溶けていきそうになるからだ。 そのなかをズッコはひたすら突き進む。 逃げるのではない、どこかへ向かうのだ。 ―そして、ズッコは監獄の屋根から飛び立つ。 イカロスのように太陽をめがけて。 |
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| 【どんな舞台?】 |
| 『ロベルト・ズッコ』の「熱」 中野 志朗 昨年の10月くらいだったか、劇団のアトリエ委員会なるところから、私が提出した『ロベルト・ズッコ』上演企画書が採用されたとの嬉しい報せをもらった時、実はすぐさま、これから漕ぎ出す船の前途の多難さに思いが到った。作品は、日本ではまだなじみの薄い作家でありながら(とはいえ、近年、ようやくいくつかの作品が上演されるに到っている)、祖国フランス及びヨーロッパ全般では、すでに巨匠の感のある、ベルナール=マリ・コルテス(1948〜1989)の遺作となったものである。実際にフランスで起きた連続殺人事件を題材に、犯人の青年を物語の中心に据えつつも、我々の生きる「現代」という時代を鮮烈に描いてゆく筆致は、他の同時代作家たちが簡単には及ばぬほどのものであり、まさしく快作には違いないものの、また同時に難物も難物、決して一筋縄ではゆかぬ問題作でもあるのだ。登場人物たちの行動が「一般的、最大公約数的行動」を大きく離れ、ひどく個人的、特徴的であるため、簡単には人物たちの「動機と行動」の連関が読み解けないことが、その主たる理由であろうか。 実は私、中野は、エラそうにこう書き進めてはいるものの、本作品が演出家デビュー作となる。デビュー作でいきなり『ズッコ』を採り上げた自分に半ばあきれはするものの、しかし、まさにこの難物をこそ採り上げるべきとする「天の声」を聞いた気がしたのも事実である。デビュー作というものは、その人の、その後の作品群の傾向なり、指針を決めてしまう要素を多分に含み込んでしまうものだから、私が『ズッコ』に嗅ぎ付けたものも、おそらく将来の私にとって重要なものとなるのかも知れない。 そう思いつつテクストに向かうのだが、そう簡単にはこちらを寄せ付けてくれないのは、上記の通りだ。しかし、私がこのテクストに初めて目を通した時から、一つだけ、ある確信を得ていた。それは、このテクストは「熱」を帯び、「鼓動」のようなものを中から聞き取ることが出来るということ(ずいぶん怪しげな形容をしているが、事実そう思うのだから仕方ない)。私はこの「熱」をこそ、全ての出発点としてみたい。 「暑過ぎる、このいまいましい街は。雪の降る、アフリカへ行きたい」 この台詞は、劇中、主人公ズッコが、彼の住む「ここ」(おそらくパリ)を脱出し、「ここでないどこか=〈雪の降るアフリカ〉への出発を夢見て語るもので、私が最も気に入っている台詞の一つだ。「ここでないどこか」とは、ひょっとしたら、彼の夢想の中にしか存在しない、「あり得ない彼方」なのかも知れない。しかし、それでもズッコはそこを目指し、もがき続ける。そこに私は「熱」を感じるのだ。 この「熱」の発見においてこそ、私はこの作品に、それがフランス人作家により、フランス社会を前提に書かれたにも拘らず、この地=日本との通底孔を見出す。 どんな社会であれ、「生」に向かってもがく人間の持つ「熱」には、ドラマチックなものがある。「熱」の吐け口は様々、見つかる場合もあれば、見つからない場合もあろう。しかし「熱」の、まさにその存在そのものは、演劇を通してであれ、感じていたい。 「第二の祈りの後、太陽の視表面が広がり、おまえは男根がそこから突き出るのを見るであろう、それが風の源なのだ。東の方角へ顔を向ければ、それも同じように動き、西の方角へ顔を向ければ、おまえはついてくるであろう」 唐突な引用のようだが、これは『ロベルト・ズッコ』の枕に作者自身が置いた言葉で(従って台詞としては出てこない)、心理学者ユングが、とあるインタビューでミトラ教(古代ローマ時代、ペルシア地帯で信奉された、太陽神崇拝の宗教)の教典から引用したものの再引用だそうだ。ユングがある日、彼の受け持ったパラノイア患者から、太陽に纒わる彼の幻影を聞かされたところ、この患者はミトラ教など知りもしないはずなのに、驚いたことに、上に引いたイメージとそっくりのことを語ったらしい。そこからユングは、人類は民族、文化の違いに関係なく、太古の時代から同じ基層/イメージを無意識の中に持つという、彼の自説を打ち立てるに到ったとのことだ。 『ズッコ』に引き付け返せば、人類は太古の時代から、「より強いもの」「より偉大なもの」(=“男根の突き出た太陽”)にあこがれ、「ここでないどこか」への出発を夢見てきたのかも知れない。こうした巨大なテーマを抱えているからこそ、冒頭でこぼした「前途多難云々」は覚悟のうえ、まずは作品の持つ「鼓動」に耳を傾けるべきかと自分を戒める気になる。 |
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| ベルナール=マリ・コルテス −異物としてのテクスト 佐藤 康 1989年に41歳で逝ったフランスの劇作家、ベルナール=マリ・コルテスの生涯を夭折と呼ぼうと呼ぶまいとかまわない。コルテスと同じように、若くしてこの時代の徴たる病に倒れた者はけっして少なくないのだし、とりわけそういう芸術家は多かった。コルテスもその一人であったにすぎない。 コルテスが現代演劇のなかに大きな存在として浮かび出るのは、77年に上演されたモノローグ劇『森の直前の夜』を経て、83年に『黒人と犬の闘い』を、当代きっての俊英演出家パトリス・シェローが演出したことからである。以後、同時代作家を取り上げることの稀なシェローが初演する現代作家として、コルテスは『西埠頭』、『綿畑の孤独のなかで』、『砂漠への帰還』を送り出す。だが大掛かりな装置にテクストが圧殺されてしまった、という評からも端的にうかがえるように、コルテスの評価はただちに不動のものとなったわけではない。晩年の作『ロベルト・ズッコ』がコルテスの死の翌年、ペーター・シュタインによってベルリンで初演されたのを口火にして、『ズッコ』は世界中で上演される問題作となる。その一方、シェローが『綿畑』を再演し、今度はコルテス世界を的確に掌中におさめた演出と演技で濃密なテクストの世界を作り上げる。こうしてコルテスに対する評価は死後、一挙に高まりを見せた。 そういうスケールの劇作家として、コルテスは現代フランスにおいて例外的な存在である。思い巡らしてもらいたい。カミュやサルトルが一世を風靡し、イオネスコやベケットのいわゆる「不条理演劇」の流行が去ったあたりから、70年代を迎えると、フランスの現代劇作家はいつのまにか、私達の視野から忽然と姿を消してしまった観がある。むべなるかな、後期ベケットの作品に象徴されるようなラディカルな解体−西洋型上演システムの追悼−の後、また68年世代の肉体の演劇の嵐が吹き荒れるなか、演劇を「書く」という営為はもはや、従来の戯曲と同じ位相のエクリチュールとしては成立しにくくなっていたのだ。かくしてフランス演劇は同時代劇作家の変容を水面下に封じ込めたまま、「演出家の時代」として展開したのだった。劇場は演出家を主体とした、文化の記憶読解の場となっていく。シェローでもブルックでもいい、その上演作業の眼目は、演出家が過去の作品や物語をいかに「現代−世界−演劇」として読み換えるかにひたすらかかっていた、と言ってもいい。 解体され、消尽されてしまうシステムからもすりぬけ、解釈されて別物に翻訳されてしまうこともない言葉を、俳優の身体から声として立ち上げること。コルテスと、彼以降の劇作家が背負った演劇的課題とは、ごく大づかみに言えばそういうことになるだろう。その困難な方程式の「解」を、おそらくコルテスは「異物」のような他者を目の前にした−あるいは自分のなかに抱えた−者たちの関係性の劇として発見しようとしたのだろう。自己のなかから不意に現れる他人を抱え、他人のなかに不意に現れる自己を見つめながら私達はこの世界を生きている。それは了解したとも言えなければ、了解できないとも言えない世界のなかで、異物のような言語をつむぎ続けることにほかならない。 コルテス作品を演じる俳優にも同じ課題は突きつけられているだろう。『ズッコ』の各場面にはそれなりにリアルな設定、リアルな状況がある。だが、それをリアルに演じようとすると、テクストがそうすることを拒んでくる。けれどもその具体性を無視して演じてしまえば、会話劇をささえる身体性が宙に浮いてしまうだろう。ここで要求されている身体は、どのみち異物を抱えざるをえないようになっているのだ。この異物をきれいに殺いで「ならして」しまえば、おそらくコルテス作品は何ほどのものでもない陳腐な物語になってしまう、いや、それすらにもならないであろう。 この原稿はまだ『ズッコ』の稽古が開始される前に書いている。新進気鋭、中野志朗の演出の下、文学座のベテランから若手まで、層の厚い俳優たちとともに、今は−大袈裟でなく−新大陸めざして帆を上げる者の気持ちでいる。劇の構造、台詞の文体、身体のありようまでを含めて、何から何までが、かつてないことを要求してくるだろう。であるから、異例のこととして、「ドラマトゥルグ」なる水先案内人の役目 をおおせつかったこの私、どこまでコルテス世界に迫ることができるのか。そして、どんな新しい世界を皆さんとともに見ることができるのか。はからずも劇団創立65周年の記念の年に、岸田國士、岩田豊雄がフランスからもたらした「前衛」の演劇的思考を今ふたたびこの劇団が更新しようとする場に立ち合えることを幸せに思う。 |
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| この作品は「熱」を帯び、そのなかに鼓動のようなものを聞き散ることができる。 この熱をすべての出発点として舞台を作っていきたい。 ここに登場するだれもが現代を生きていく孤独をかかえているが、その孤独の向こうに「力」や「エネルギー」が出せればいいと思うのである。 作品の中心にいるのはズッコだが、ズッコを「鏡」として登場人物は自分の姿を映し出す。 その意味ではこの作品は群集劇として、我々の姿を映し出してもいるのである。 |
| 父親殺しで拘留された刑務所から脱走し、家に戻るや母を絞殺、少女を凌辱し、路上で刑事を刺殺し、真昼の公園で子供を銃殺してその母親を人質に逃走するロベルト・ズッコ。 なんともショッキングな物語と刺激的なヒーローの登場! 6月アトリエの会、ベルナール=マリ・コルテス◎作、石井惠◎訳、中野志朗◎演出『ロベルト・ズッコ』は、純粋な魂を持つ孤独な主人公を鏡にして、彼を取り巻く無理解で身勝手な人間たちの姿を強烈に映し出す、衝撃の問題作です。 作者ベルナール=マリ・コルテスは1948年、フランス北西部の都市メスで生まれ、ストラスブール国立演劇学校に学びました。77年アヴィニョン・フェスティバルで上演された長編の一人芝居『森の直前の夜』が評判を呼び、83年、パトリス・シェロー演出『黒人と犬の闘い』でさらに注目を浴びました。その後も『西埠頭』『砂漠への帰還』『綿畑の孤独の中で』などの代表作がシェローとの共同作業によって上演されます。88年にシェイクスピアの『冬物語』を翻訳、この舞台も高い評価を得ました。89年4月、エイズにより40歳の若さで亡くなるまで、戯曲をはじめ古典の翻訳や小説、ラジオドラマなど少なくない数の作品を残しています。 1988年のパリ。作者コルテスは、地下鉄に貼られた一枚の指名手配写真を見ます。その写真の主はロベルト・ズッコ、26歳。19歳で両親を殺し、収容された精神病院から脱走し、強盗と殺人を重ねながらヨーロッパを逃亡し続ける連続殺人犯でした。この若者をモデルにコルテスは『ロベルト・ズッコ』を書き上げます。この作品がコルテスの遺作となりました。 初演は作者の死から一年後の90年、ベルリンでペーター・シュタイン演出により上演。本国フランスでは、90年のヴィルルバンヌ国立民衆劇場(TNP)でのミシェル・ピコリによる朗読を経て、91年、同じくTNPにおいてブリューノ・ベグラン演出で上演されました。没後十年を記念する98年からもその作品がヨーロッパ各地で上演され、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーが98〜99年シーズンの一本として『ロベルト・ズッコ』を英国初演するなど、コルテス人気は現在も衰えを見せません。 さらに、2001年には別の原作とこの戯曲に着想を得た同名の映画も公開され、カンヌ映画祭に出品されましたが、実際の連続殺人事件を題材にした内容にフランス警察が不快感を示して、上映会場の警備を拒否するという事態が起きたとのことです。日本での初演は2000年3月、世田谷パブリックシアターで佐藤信演出により上演されました。 破滅に向かって一途に疾走する若者。その主人公が繰り返す理由なき殺人を乾いた筆致で描き、奥深い魅力を秘めた戯曲。この作品で演出デビューを飾る中野志朗の並々ならぬ熱意と、多彩で堅実な文学座演技陣の熱演がどんな舞台成果をもたらしてくれるのか。6月アトリエの会『ロベルト・ズッコ』はまさに、乞うご期待です。 |
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