平成15年度文化庁芸術団体重点支援事業
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おれという名の一片のバラード。まったくおれという男の人生ってやつは・・・。 留置場の中でおれは腕を上げる。手を握る。おれは感じるんだ。死んでいった者達の温もり。 死んでいる人達の手ってのはあったかいんだ。生きている連中のより、ずっと・・・。 2003年12月11日(木)〜23日(火) 信濃町・文学座アトリエ (ここをクリックすると地図が出ます) |
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| :出演: 金内喜久夫・小林 勝也・清水明彦・瀬戸口郁・古川悦史・清水圭吾 新橋耐子・赤司まり子・富沢亜古・目黒未奈・山本深紅
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【 公演情報 】
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| 【 物 語 】 |
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| 【どんな舞台?】 |
| 喜劇ではなくコメディでもないけれど●川村 毅 『バラード』は『牛蛙』に続いて文学座アトリエ公演に書き下ろす二本目になった。 『牛蛙』の制作が発表されたときには文学座と私の取り合わせにミスキャストではないかと危惧する向きもあったが、私はそのときも今もそうは思ってはいない。このようにして二本目を書くことができてよかった。 最近、時間というのは魔術だと感じることにしばしば出くわしている。私と文学座とのつきあいも、こうした見えない力によって成立しているに違いない。十年前には到底想像つかなかったことが実現されている。 私は文学座の俳優陣の台詞術に興味を覚える。自分の書いた台詞がその台詞術を通過してどのような化学反応を起こすかに多大な好奇心を抱いて『牛蛙』を渡した。今回もどのような化学反応結果が現れるのか楽しみだ。 告白すれば、執筆前もけっこう楽しい。周知のとおり文学座は百数名もの俳優を抱える大所帯だ。様々な外見と演技のスタイルを持った俳優陣がひしめいている感があり、まっさらな原稿用紙を前にしてキャラクターを誕生させようとするとき、どのような年齢、容姿、生活背景、人生経験を持った登場人物であっても、必ずやそれに合致し演じることのできる俳優氏がいるだろうという確信によって、書き手は大いなる自由を感じている。 だからけっこう楽しい。 今回は執筆中も存分に楽しんだ。というのは今になって余裕があるから言えることであって、苦しみを一度も覚えずに仕上がった作品などあったためしがないのだが、今はもう苦しみのほうは概ね忘れてしまった。書きながら自分自身で随分とケラケラ笑ったり、ニヤニヤしていたことばかり覚えている。 いっそコメディとうたってしまおうかとも考えたが、この英語の語感にはどこか違和感を覚える。まさしく外国産の喜劇の戯曲をそう呼ぶぶんには違和感はないが、日本人の手になるコメディと言われると、どうせアメリカ人のような日本人が出て来てアメリカ仕込みの笑わせ方をするのだろうと想像してしまって憂鬱になる。 自分のこれはまさかコメディではないだろうと思い、ではブラック・コメディではと考えたが、この呼び方も語感が古い。土台自らワルだクロだという輩に本当の悪や黒がいたためしがない。 では造語をしてしまえと、グロテスク・コメディという名称を思いつき、数日はいいぞと思っていたが、次第にどうなんでしょうかねと不安になってきた。グロテスクというのは語感が強すぎる。しかも、前作に続いてどうやら犯罪を題材にしているらしいから恐ろしく文字通り残酷でグロテスクな世界が展開されるのではと誤解されそうだ。 そこでコメディと格闘しているからこういう羽目に陥るのだと喜劇に乗り換えた。しかし、喜劇というだけではコメディと同様座りがよくない。『喜劇・バラード』というのはどうもいただけないものを感じる。 重喜劇というのは確か今村昌平氏が思いついた言葉と記憶している。悪くはないが、人の造語であるし、どうしても今村映画のあの粘着質の白黒画面を最初に思い出してしまう。 悩んでいると社会派喜劇というのはどうかと進言してきた人がいた。私はその人の顔をまじまじと見て思わず言ってしまった。「君はぼくのことをまさか社会派と思っているんじゃないだろうね」殺気を感じたのか、聞いた途端、その人は脱兎のごとく私の前から走り去ってしまった。うわーっと大声を上げつつ。社会派とは取り上げる題材に対して自らこそ正義の使と信じていなければできない創作態度のことを言う。私には無理な話だ。 そういうわけで、私は名付けることを諦めた。諦めた上でなぜ自分は名付けようとしたのかと最初の動機を考えた。はなから喜劇とかコメディとうたっていないとなかなか笑っていただけない日本の客席のことを鑑みてのことだと気がついた。 この劇は遠慮なしに笑ってほしい。 |
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| 遠くにロマンが見える●藤原新平 わたしたちは何という恐ろしい時代に生きているのだろうか。この作品を読みすすむにつれてその実感が次第に濃くなってきた。冒頭の場を読んだ時は、この作品は喜劇ではないかと思った。せりふの面白さ、怪しい人間関係、ドタバタのような立ち回り。だが次の場は一転して別のトーンになる。時にクローズアップ、時にロングと幾種類かの変化。予期しない意外な展開は殆ど“拉致”だ。川村は書きたいように書いている。あらゆる条件を無視して、こう書くしかないというのっぴきならない息遣い。読み切った時、締めつけられるような無惨さと空しく深い哀感が残りしばらく台本を持ったまま呆然とした。檻の中で飯島という男の最後のせりふはこうだ。 これで古巣に帰ってきた。おれのふるさと、わが家、留置場。今度はどうなるんだろう。数日で出られるか、それともずっとこのままか。まったくおれという男の人生ってやつは・・・・まあ、どちらに転ぼうがかまいやしない。もうおれには関係ないことだ。生きていくってことは死んでいく者を数えることだ。おれという名の一片のバラード。留置場のなかでおれは腕を上げる。手を握る。おれは感じるんだ。死んでいった者達の温もり。わかる人にはわかるだろうが、死んでいる人達の手ってのはあったかいんだ。生きている連中のより、ずっと・・・・。おれは自由になった。 これを自由と呼んでいいのだろうか。 かつて自由はまぶしく輝き、人間解放の讃歌であった。理念であった。そこから未来へと橋を架けられるものと信じた時代があった。ほんの半世紀ほど前のことだ。今では誰も如何にそれが虚妄であったかを知っている。わずかな時間だった。あのわずかな時が失われ、激しい闘争と謀略と欺瞞にもまれながら、それでも多くの人々は平凡な幸せを求めてこの末世を歩いてきた。黙々と。 この作品には、そういう人々の横っ面をはりとばすような、嘲笑するような挑発がある。劇そのものも、構造性などというもっともらしい常識を破壊しようとしている。こうしか書けないという爽快な気迫がみなぎり、まさに暴力的とさえいえる。 ここに登場する人達はあなたのお隣りの人かもしれない。戯画的に見えてもいい加減ではない。この社会に生きのびようとして一所懸命なのだ。むしろこの人達は生きることに愚直なのだ。 人は何かのために生きているのではないように思う。思想も、愛も、何の力にもならないのだろうか。求めることの不毛さを知った人々は沢山いる。我々は毎日ニュースで犯罪事件を見続けているが、裁判によって解明出来得ない深い闇が拡がっているのではないか。少しずつ音もなく壊れてゆくような気配を時にふと感じ、あたりを見廻すような不安におびえることがありはしないだろうか。 わたしは少し過剰な思い込みでこの文を書いているかもしれない。救いようのない絶望的な世界を扱った作品のように思われるのは川村の本意ではないだろう。 川村の眼の奥に人間の原生を夢見るロマンがのぞく。遥かな太古の原生的人間の姿を、それは未来への人間への期待かもしれないし、もしかしたら憧憬とも思える。 「バラード」という題名はそれを暗示している。かすかではあるがこの作品の根底には人間への信頼がある。 作者は人間という対象に対して時に主観的に時に客観的につかずはなれずの絶妙な距離感を保っているのがその証拠だ。その自在さが時に大いに笑わせもし、時に泣かせる。前に劇構造を無視してと書いたが実は見事に計算されたものだった。 このバラードは強いて言えば「生と死」、そして「性と愛」のバラードだとわたしは思っている。この登場人物達が癒される時は何時だろうか。 |
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