| 平成16年 文学座1月公演 紀伊國屋書店提携 平成15年度文化庁芸術団体重点支援事業 |
![]() |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 2004年1月30日(金)〜2月8日(日) 新宿南口紀伊國屋サザンシアター |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【 公演情報 】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ▲ページトップへ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【 配 役 】 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| ▲ページトップへ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 【 物 語 】 |
| 明治18年。都心から十里の三多摩の地。 流浪の剣客秋山国三郎と富農石坂昌孝の家は、自由民権の旗を掲げる若者達の「梁山泊」となっていた。 革命にテロに一身を捧げた壮士達、学問に文学にあるいは恋に命を燃やす青年達。 彼らの青雲の志、その行く末は・・・・。 民権運動の闘士大井憲太郎と景山英子、近代文学の先駆者北村透谷、孤独の生物学者南方熊楠なども登場。 風の中の蝶のように舞い踊る明治の青春像を活写して、剣が火花を散らし短銃が火を噴く、波瀾万丈の大群像劇。 |
| ▲ページトップへ |
| 【どんな舞台?】 |
| 新年を迎えての最初の作品『風の中の蝶たち』はいかがでしたでしょうか。自由民権運動や大阪事件などについてもう少し詳しく説明したかったのですが、紙幅の都合もあり十分には出来ませんでした。また登場人物の行く末も、お芝居の最後に秋山老人が語った通りで、皆さんそれぞれに波乱の一生を送られた方ばかりなので一言で語り尽くせないのですが、あえて今回はコーレキの姉、美那さんのその後について、少し付け加えさせて下さい。 石阪美那から北村美那へ 石阪美那と北村門太郎こと透谷は1888年(明治21)11月3日に結婚。美那23歳、透谷が19歳でした。92年(明治25)には長女英子(ふさこ)が誕生します。それから透谷は詩や評論で日本文学史に名を残す存在となりましたが、94年(明治27)5月16日、自殺を遂げてしまいます。享年25歳でした。 さて、残された美那は99年(明治32)34歳の時、一人娘の英子を北村家に預け、帰国する宣教師達と共に渡米、独力で生活し大学で英語などを学び優秀な成績で卒業しました。そして、1907年(明治40)1月30日に帰国しますが、父昌孝は既に13日になくなっていました。弟公歴はアメリカから一時帰国して父の死に立ちあい、そのまますぐに再渡米。滞米中に会う事のなかった姉弟はすれ違いのままでした。 その後、美那は娘英子と共に暮らし、再婚もせず、終生教育者として過ごすことになります。 まずは英語塾を開き、それから東京府立豊島師範学校(現、東京学芸大学)で、嘱託ながら当時はまだ珍しかった女性教師として14年間英語を教え、次に東京府立第八高等女学校(現、都立八潮高校)で、15年間教壇に立ち、37年(昭和12)3月、72歳で退職しました。その後しばらくして42年(昭和17)4月10日、老衰により死去。北村美那子、享年76歳でした。 亡くなる四ヶ月前には太平洋戦争が始まり、死の前日の9日にはフィリピンのルソン島の米軍がついに日本軍に降伏。しかし18日には、米軍爆撃機による東京初空襲がおこなわれました。彼女にとっての「幻境の地」ともいえるアメリカとの戦争は、彼女の目にどう映っていたのでしょう。 ところで、彼女は三冊の日記を残しています。その内の一冊の一番最後に、一篇の英文の詩が記されていました。それは、亡き夫透谷の詩「雙蝶のわかれ」を英訳したものでした。 明治、大正、昭和。日本はあの蝶達の目指した世界に近づいたのでしょうか。いつの時代にも高みを目指し羽ばたいてゆく蝶達。平成の蝶達の行方には何が待受けているのでしょうか。 The Parting of the Butterflies・・・・ 雙蝶のわかれ Without a sign to each other 言わず語らぬ蝶ふたつ、 The butterflies rise together And soar away. 斉しく起ちて舞ひ行けり、 Behind them,a cold wind, うしろを見れば野は寂し、前に向へば風冷し。 Their dreams are all of departed spring. 過ぎにし春は夢なれど、 They wonder where to go. 迷い行衛は何処ぞや。 (「雙蝶のわかれ」部分) |
| ▲ページトップへ
|
| 2003年も文学座は様々なドラマを上演してまいりましたが、いかがでしたでしょうか。皆さんの心に残る作品があれば光栄です。 そして2004月、また新たな一年を迎えた新春公演には、吉永仁郎さんの新作「風の中の蝶たち」をお贈りします。 先月もお伝えしましたが、文学座で10年ぶりとなる吉永さんの今回の作品は、吉永さんが得意とする『評伝物』です。原作は一昨年亡くなった山田風太郎の、「週刊新潮」に1979年から80年にかけて連載された『明治波濤歌』の一篇「風の中の蝶」です。 山田風太郎 1922年(大正11年)兵庫県生まれ。現在の東京医科大学を50年に卒業。在学中に探偵小説雑誌『宝石』の新人賞入選作「達磨峠の事件」で作家デビュー。以後、ミステリ、『甲賀忍法帖』を始めとする忍法帖物、『警視庁草紙』等の明治物、『戦中派不戦日記』等の日記、『あと千回の晩餐』等のエッセイなど多岐にわたる。一昨年のNHK金曜時代劇『山田風太郎からくり事件帖』(原作『警視庁草紙』)や、二度目の映画化となる『魔界転生』が今年4月に公開されたのが記憶に新しい所である。2001年、肺炎のため79歳で死去。 明治の詩人・北村透谷(門太郎)が、後に「幻境の地」と書き残した多摩の地で、まだ十代の2年間に起こった運命的な出会いの数々が物語の中心となります。自由民権運動の壮士・大矢正夫、大学入学よりも民権運動にのめり込んでゆく石阪公歴(まさつぐ)、その姉美那、民権運動を陰でささえる老人秋山国三郎と孫の蓬(よもぎ)。 元自由党の磯山清兵衛、景山英子(ひでこ)、大井憲太郎。政治よりも粘菌(ねんきん)研究に没頭し後に博物学の巨人となる南方熊楠(みなかたくまぐす)。運動を進める彼らを追う警視庁の密偵と、それを阻む新撰組ゆかりの闇ノ目組。人知れず命を賭けた争いが繰り広げられます。 西南戦争後のインフレ対策として打ち出された松方大蔵卿の超デフレ対策により、政策開始から3年で米価や生糸は半値にまで下落しましたが、それが返って生産農家の現金収入の激減と、地租の据え置きという実質的な増税となって、農民たちに大打撃を与えました。 関東や信州の養蚕地帯を中心に各地の地租軽減運動は嫌が上にも拡大し、秩父困民党や武相(武蔵と相模)困民党などの結成を促し、負債農民達の騒擾(そうじょう)事件は一挙に増加しました。加えて自由党員らの武力闘争にも拍車をかけ、茨城の加波山(かばさん)事件の他、各地で謀議や武装蜂起が計画されましたが、悉く政府に鎮圧されていきました。 そんな国内情勢の中、明治17年(1884)朝鮮で政権内部の親日派と日本公使がクーデターを起こしますが失敗(甲申事変)。そして翌18年、動揺する朝鮮に旧自由党の壮士達を送り込み、再度保守政権を倒して親日派政権による朝鮮改革を行い、今度はその余波を利用して日本国内で政府転覆を図ろうと元自由党の大井憲太郎、 磯山清兵衛らが目論みます。そして大矢正夫は、軍資金捻出のために強盗を働きますが、結局磯山は逃亡、大井や景山英子らは逮捕され「大阪事件」と呼ばれる大事件となりました。 親友の大矢を裏切ったという心の傷を負った門太郎。ついに、運動家として国外へ逃げざるを得なくなる公歴。 研究のためアメリカへ旅立つ熊楠。 国家が近代化を目指し激しく揺れ動いた明治という時代に、青春の嵐に翻弄される蝶たちの彷徨を、どうか最後までしっかりと見届けてください。 うしろを見れば野は寂(さび)し、 前に向へば風冷(さむ)し。 過ぎにし春は夢なれど、 迷ひ行衛(ゆくえ)は何処(いずく)ぞや。 (北村透谷「雙蝶(そうちょう)のわかれ」より) |
| ▲ページトップへ
|
| 吉永仁郎賛に 大橋喜一(劇作家・劇団民藝所属) 近頃はもの覚えが怪しくなり、吉永君と知り合った時期も判然としない。かなり古くて、1960年から70年にかけての頃に思われる。二人の干支は同じ巳年だから、私の方が12年早くこの世に出て来たことは確かである。当時演劇雑誌の「テアトロ」が戯曲研究会なるものをこしらえた頃、新劇戯曲賞なるものを貰ったばかりの私は指導者の役を振り当てられた。会員は年間一本以上の戯曲を発表しなければならなくて、その指導や講評に私が当てられた。そうした名残から、吉永君は今でも私を「先生」と呼んだりするが、それがどうも擽(くすぐ)ったい。今の吉永君の劇作の実績たるや、最早呆けて怪しい私の経験を超えること遥かであるのだから。 吉永君がまだ無名で『すててこてこてこ』を発表された頃、劇団民藝の文芸演出部の一員だった私は、早速これを上演候補作品として推薦したのだが、誰からも何の反応もなかった。1978年当時のこと。今ここで、新劇団の文芸演出部なるものの、「上演戯曲を探し出し、読んで、選び出す」という機能の、甚だ不可思議な作業機能や実態を述べる余地がないので省くが、『すててこてこてこ』は3年目にしてやっと渡辺浩子君の目に止った次第。その浩子君も、初めて読んだ三年前の時、作品のもつ主題や舞台的な可能性など、見通すことが出来なくて、二年間も放置していたのが残念でしたと、私に語ってくれた。吉永戯曲にとっては運命的ともいえる出会いをした渡辺浩子君も、もう世を去ってしまわれたのだが・・・・・・。 吉永君と私とは、互いの戯曲や舞台をもっとも多く読み合った間柄だと思う。ただ、私はこの五・六年身辺事情と体力衰退のために、演劇から遠ざかってしまったので、吉永君の近作についてはわからない。だが、そうだ、文学座初演の『煮え切らない幽霊たち―蘭学事始浮説―』あたりからの彼の進撃には目を見張らされるものがあった。思いつくままに並べてみると、(戯曲名は省略する。) 医師 (杉田玄白ほか) 劇作家 (河竹黙阿弥) 民衆 (彰義隊の変と長屋衆) 彫刻家 (萩原守衛) 作家 (滝沢馬琴・島崎藤村) 画家 (竹久夢二・渡辺崋山) 噺家 (三遊亭円朝ほか) 遊郭 (州崎遊郭の人々) これらの作品が書かれ、上演され、みな一定の水準を保つ舞台として見せられた時、私は正直に告白すれば、はじめの物珍しさから、唖然となり、ついには畏敬の念にすら変ってしまった。まったく、びっくり、そして挙句には「吉永史学」なる造語まで口にするに至った次第である。「吉永史学」と私が言うのは、言ってみるならば、明治維新前後から、明治・大正・昭和初期にかけての、日本人の意識が近代化してゆく過程を、状況変化に対応する人間の意識や行動によって描く戯曲的方法―とでも言おうか、彼から「先生」などと呼ばれると擽ったいのを通りこし、穴に潜りたくなる気持ちの根源にある意識なのである。 吉永君の戯曲、そしてその舞台が私にショックを与えた例を二つあげておこう。 その一つは、これは「吉永史学」からはちょっと離れた異色作になるが、1994年春に紀伊國屋ホールで幕を開けた『日暮(ひく)れて、二楽章のセレナーデ』だ。それにしても、このタイトルの巧なこと正に心憎きかな。その夜、私は作者と並んで紀伊國屋ホールの座席に座った。イタリア映画から発想されたというこの戯曲、そして舞台は、そう、一連の吉永史学とは異なる、言うなれば、モーツァルトやショパンを愛される吉永史学―異曲の、それでありながら、異化された大正時代、シュトラウスの円舞曲に重なる昭和の出征悲劇(エレジー)が舞台から流れてきた。私は自らの歴史の二度にわたる出征エレジーを想起して、痺れるような興奮を覚えた。 帰路、紀伊國屋を出て新宿駅へ向う地下道で、私は、吉永君に向って喚(わめ)いていたことを覚えている。 「吉永君、ありがとう、おれ書いてみようという勇気が出たよ。永年考えていた、江戸川乱歩の初期短篇!君のセレナーデは、その勇気を与えてくれた。ありがとう!」 もう一つは、1997年6月に上演された『正午浅草 荷風小伝』だ。スペースの都合で中身には触れないが、私は、荷風の「墨(※)東綺譚」を愛する故もあるが、山田吾一さんのために書かれたというこの一人芝居を、私が観た限りでは、私が知る一人芝居としては、最高の戯曲だと言うことである。私は自分の参考のために、『荷風小伝』の数場面を書き抜いた程である。 新作『風の中の蝶たち』の成功を祈りながら。 (※)正確にはサンズイヘン、ツクリは「黒」の下に「土」 |
| ▲ページトップへ
|
Copyright(C) 1997-2004 株式会社文学座
本ホームページの記載内容についての無断転載を禁じます。
このホームページの著作権は株式会社文学座に帰属します。