2005年5月 文学座アトリエの会

ぬけがら



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佃 典彦
演出 松本祐子

2005年5月10日(火)〜22日(日)
信濃町・文学座アトリエ
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公演情報 配 役 物 語

第50回岸田國士戯曲賞を受賞しました(2006年1月23日)
:出演:
飯沼 慧・坂部文昭・関 輝雄・高橋克明・若松泰弘 椎原克知・佐川和正
山本郁子・奥山美代子・太田志津香・添田園子



:スタッフ:
美術 …… 石井強司 | 制作 …… 伊藤正道
照明
……
金 英秀
| 中島 健
音響効果
……
藤田赤目
| 票券 …… 松田みず穂
衣裳 …… 出川淳子 | 宣伝デザイン …… 山下浩介
舞台監督 …… 神田 真 |


【 公演情報 】
2005年 5
10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22
開演
時間
14:00 / / /
19:00 / / / / /

臨時会員券 前売・電話予約4,000円/当日4,300円(全席指定・税込)
学生2,500円(取り扱い文学座のみ)
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【 あらすじ 】
鈴木卓也、40歳。彼は、交通事故を起こし郵便局を解雇となった。妻には愛想をつかされ、おまけに母親も死んでしまい、今では82歳の親父との生活が待っているだけ。 そんな彼に、ある月の明るい夜、とんでもないコトがおきたのだ・・・。なんと父親がぬけがらに。そして、卓也の前に現われたのは20歳も若がえった父親。それからの父親は、まるでセミのように脱皮を繰り返し・・・。 〈親父と俺が、平成と昭和を駆け抜ける!〉物語にご期待下さい。
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【どんな舞台?】
名古屋の劇団B級遊撃隊を主宰し、そこを拠点に、作家、演出家、俳優として大活躍の佃典彦(つくだ・のりひこ)の新作が、ついに文学座アトリエに登場します。
この『ぬけがら』は、昨年3月にNHK‐FMで放送された佃氏の同名のラジオドラマをベースに、今回新たに舞台版として書き下ろされた作品です。

しかし『ある日、突然』事態は起こるのである。発覚して初めて振り返る。それらしき兆候はあるものの釈然としない。突然、潜んでいたブラックホールが口を開けたとしかいいようが無い。それはまるで「ザムザがある日、突然虫に変わった様」に、「Kがある日、突然犯罪者になっていた様」に、「コモン君がある日、突然デンドロカナリヤになった様」に、「足のすねにある日、突然かいわれ大根が生えた様」に、ある日、突然事態は起こるのだ。
(『テアトロ』2002年8月号、佃典彦「ある日、突然」より)

今回の主人公にも、それらは突然やってきました。浮気相手とのもつれ、交通事故に懲戒免職、母親の死、離婚問題。これでもかというほどてんこ盛り。つつましく生きている現代日本の都市生活者にとってみれば、自然災害を除けばこれほどのカタストロフはないでしょう。とどめが、父親の脱皮現象! その現象は毎日おこり、ぬけがら″たちはまたそれぞれに生きているようだから余計ややこしい。こんな突拍子もない状況を思いついてしまった作者の発想力に感心します。
あの敗戦により一億総ぬけがら状態ともいえる時期を経験してきたことを考えれば、実は、日本人の記憶のとても深い場所にすでに潜んでいるのかもしれません。それが今回どう物語として展開し結実していくか、今からとても楽しみです。
さて、第4回読売演劇大賞の優秀作品賞を受賞した佃氏の『KAN‐KAN』は次のように評されました。

「小劇場の多様な才能が集まり、現代的なモチーフから実験精神にあふれた舞台を生み出した。小劇場の20年の成果が結実した」(読売演劇大賞『KAN‐KAN』選評)

手前味噌で恐縮ですが、国内外を問わず古典から前衛まで、小さな空間を自在に使って観客との特別な場を創り続けてきたアトリエにふさわしい新たな作家と、また一人出会えたのではないかと思っております。
演出の松本祐子は、1999年7月アトリエの会『冬のひまわり』(鄭義信作)で、アトリエ内に、ガス、水道完備の民宿セットを建てて演出デヴューを果たし、劇団創立60周年記念創作戯曲懸賞募集入選作『翔べない金糸雀の唄』、現代東欧の混乱を描いた『ペンテコスト』、『エンジェルス・イン・アメリカ』で知られるトニー・クシュナーの『ホームバディ/カブール』といった問題作を発表。劇団外でもモーツァルトのオペラ『愛の女庭師』、新国立劇場で鈴江俊郎作『てのひらのこびと』など、数少ない女性演出家の一人として、パワフルな活躍ぶりを見せてくれています。

  他劇団が僕の作品をやっているのを見るのは結構面白い。まあ、ガッカリする時もあるけれど所詮芝居なんてものは誤解や誤読があって当然だ。それがよい面に出た時が面白いのだ。
(『佃典彦 KAN‐KAN男』吉夏社 あとがき)

出演者もベテラン、若手が入り混じり、演出家も気合が入っているとなれば、誤解、正解、相乗効果、いかなる火花が飛び散りますか。皆様ご自身の目で見届けてください。

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 新緑のまぶしい5月10日の初日に向け、いよいよ稽古も始まりました。今回は簡単に出演者をご紹介いたします。

 失業、夫婦不和、母の死、父の脱皮(?)と四重苦にあえぐ卓也に若松泰弘。『モンテ・クリスト伯』(04)で無実のダンテスを牢獄に送った検事補ヴィルフォールを演じました。卓也に離婚を迫る妻美津子には山本郁子。昨年の『風の中の蝶たち』で北村透谷を慕う美那を演じています。そして突然「ぬけがら」になってしまった父卓二郎に飯沼慧。『人が恋しい西の窓』(02)で永い間の失踪から戻った老父を演じ、味のある演技が印象に残っています。その次々と「ぬけがら」となっていく卓二郎たちを演じるのは、昨年の『THE CRISIS』が記憶に新しい坂部文昭と関輝雄、高橋克明(『龍の伝説』03)、椎原克知(『モンテ・クリスト伯』04)、今年座員に昇格したばかりの佐川和正(『リチャード三世』03)。さらに卓也の死んだ母景子に添田園子(『沈黙と光』02)、葬儀屋の女に太田志津香(『踏台』04)、卓也の浮気相手理沙に奥山美代子(『モンテ・クリスト伯』04)といった顔ぶれです。

 ベテランから若手までが一丸となって創りあげる緻密なアンサンブル。シュールでおかしくほろ苦い人生喜劇。アトリエならではの舞台にご期待ください。

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初めての《切り売り》作業
佃 典彦

『ぬけがら』は《私戯曲》である。
僕の記憶が正しければ《私戯曲》って言葉を初めに使ったのは劇作家の北村想さんだ。もう何十年も前に北村さんの芝居を拝見した時、パンフに「小説に私小説があるように、戯曲にも《私戯曲》がある」と書かれていた。その時、僕は《私戯曲》を「自分の人生を切り売りしてフィクションで色付けしたモノ」と勝手に解釈し今でもそう思っている。僕は今まで幾つもの戯曲を書いてきたが、自分の人生など恥ずかしくて人様に見せられる代物では無いとの思いから、一度たりともそういった作品は書いたことが無かった。僕の作品にはよく郵便局員が登場するのだが、それは我が女房が郵便局員であり、取材がしやすいのと身近にいるカタギの職業を持つ人物が女房以外にいない(映像関係者はカタギとは言い難いし、劇団関係者は言うまでも無い)という理由からで別に我が女房の人生を切り売りしている訳では断じて無い。

なのに……とうとう僕は自分の人生を《切り売り》してしまった。いやいや、僕の人生だけではなく、我が父の人生までも……。
母が死んだのは3年前の5月であった。父と二人で暮らしていた。母は享年75歳、その時父は80歳、僕が38歳の時である。父の住む市営住宅は僕の家から車で30分程である。通えない距離ではないが年老いた父一人にしておく事は出来ず、うちの住宅事情から父を迎え入れる訳にもいかず、結局のところ僕が父と共に市営住宅に住むことになった。
 丁度その頃である、文学座アトリエ公演のお話を戴いた。さて、どんな作品を書こうか思案していた時であった……父の身体に異変が起きたのだ。時刻は夜中の2時を回っていた。僕は寝床から飛び起きて父の様子を見に行った。父はトイレに入った様子だったが僕の問い掛けにも返事が無い。僕は心配になり思い切ってトイレの扉を開けた。……するとそこには信じられない光景がっ!この続きは本編を見ていただく事にして、まぁ、そんな「事件」があって僕はこの事実を《切り売り》する事を決意したのだ。本編の中で父が話す戦時中の話も実話である。もっとも父の話が事実であればだが……。

 今も僕は自分の家庭と父の市営住宅とを行ったり来たりしながら芝居を続けている。父はなぜか母が死んでから元気になった。母が生きてた頃は酒も煙草も厳しく管理されてまるで亡霊の如く暮らしていたのだが、今は酒も煙草もやり放題になり満足に歩けなかったのが不思議なくらい歩けるようになった。僕は父に嗜好品は与えない。だから煙草が切れると自分で買いに行くようになったからだ。医者も驚く程の回復力であったが「欲望」は間違いなく「西洋医学」に勝る。父は僕に毎日のように初めて聞いたような顔をしながらその話に答える。僕と父との時間はメリーゴーランドみたいに同じ場所に留まって堂々巡りを繰り返す。さて、あとどれだけ僕はこんな時間の使い道しなければならないのか解らないが、少なくとも今は苦痛ではない。と、言うよりむしろ、居心地の良ささえ感じているのだ。

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沈黙に耐えられる人
松本祐子

 佃典彦さんの作品を文学座のアトリエでやろうと最初に言い出したのは、今回照明デザインを担当している金英秀氏だ。私はたまたま流山児事務所で佃作品をやっていたのを見ていて(その時の演出は天野天街氏)、その独特の世界が好きだった。
 文学座のアトリエ公演の企画は、役者や演出家から構成された10人程のメンバーによって決められているのだが、そこに佃典彦さんをお招きして私たちに作品のことなどを話してもらったことがあった。その時の佃さんの話し方は、おしゃべりな私をずしんと感動させた。とにかく沈黙の時間が長いのだ。ゆっくりと彼の頭の中にあるストーリーを語りだして、すぐに正しい言葉を選ぶための沈黙が続く。そして彼の信じられる言葉が見つかった時に次の言葉が続く。私のように沈黙が怖くて、時には思っていないことまで言ってしまうのとは全然違うのだ。彼の沈黙は時として長いのだけれど、その後に発せられる言葉はしっかりと私の耳に届く。ああ、この人はしっかりと生きている強い人なのだなぁ、この人のことは信じていいのだろうなぁと、私は沈黙の中で感じていた。コミュニケーションを取ろうと焦るあまり、言葉数が多くなり、意味をなさない言葉がただ空しく消費されるばかり……そんな安い日々を過ごしてちゃいけないんだよ、と自分に言ってみたりした。
 じゃあホンモノの対話とニセモノの対話の違いはなんだろうね、そんなことを考えていた時に、佃さんからこの作品が届いた。見ていただければわかることなので、あまり説明はしたくないのだけれど、佃さんの脚本世界には、ありえない事が起きている。今までの作品を見てみると、道の真ん中に土管があって、その土管はもう一つの世界とこの世界を繋ぐものだったり、家の屋根裏に他人が住んでいたり、ひきこもりがちな男の趣味の、紙相撲の力士が動き出したり……。今回もやっぱりありえないことが起きるのだけれど、それを別にすればとても日常的な、リアルな会話が書かれている。ありえないはずなのに至極まっとう、ホンモノとニセモノが不思議な具合に混在している。
 こんな佃さんの作品と付き合うのは、とても楽しく、そしてけっこう難しい。台本を読んでいる時、それに稽古中にも、あの佃さんの持つ沈黙を思い出してしまう。沈黙に耐えられる人は、きっと人の嘘を見抜ける人だ。沈黙に耐えられる人の前に出ると、私はどうしようもなく動揺し、その沈黙に憧れる。けれども決して静かになることの出来ない私は、やかましい存在なりに、出鱈目に言葉を浪費しない彼が書いた、出鱈目と隣り合わせのリアルをどうホンモノの対話にすればいいのだろうかしらんと稽古を楽しんでいる。
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